旅 1262 阿礼神社 (長野県塩尻市塩尻町)

2017年 10月12日

 2017年の秋には都合3回長野に帰ることになった。
 それは、母の三回忌の準備と、従兄弟の葬儀と、三回忌である。

 10月9日に義母の三回忌を無事に終えた。妻と子供は次の日から仕事等があるので、新幹線でその日の内に帰ったが、私は秋の信州を2~3日楽しんでから帰ることにした。 そのブログは『姨捨の棚田と千曲川』や『東筑摩郡の一部を訪ねる』などにまとめた。

 10月11日に2~3ヶ所寄りながら神奈川へ帰る予定にしたが、安坂将軍塚古墳で思い込みから古墳の場所を間違えて時間をとられてしまい、長野でもう一泊して10月12日に帰ることにした。

 10月12日は、昨日寄れなかった2つの日置神社を訪れたあと、甲府で泊まって学生時代の友だちと飲む予定にした。
 甲府までの移動であるから十分時間があるので塩尻市の平出遺跡と信濃国二の宮の小野神社などに寄った。

 日置神社については比較的タイムリーにまとめたのだが、甲府への移動中に寄った場所についてはまとめていなかった。 
 これらのまとめが済めば、2017年のブログは終了し、2018年のブログに入れるだろう。毎度書くことだが、タイムリーさに欠けるブログとなっている。


阿礼神社 (長野県塩尻市塩尻町)
 信濃国には式内社が48座(大7座 小41座)ある。
 筑摩郡には3座(小3座)あり、岡田神社、沙田神社、阿礼神社である。その一つである阿礼神社に寄ってみた。

 阿礼神社は塩尻の中心街から東へ約2kmに位置し、塩尻東小学校の隣にある。中山道の塩尻宿の近くにある旧県社である。
 しかし、中山道は当初塩尻峠を越えて塩尻へは来ていなかった。

 以前の中山道は、岡谷から小野峠を越え小野に抜け、そこから牛頸峠を越えて木曽路に抜けていた。このコースの方がシュートカットできる。この小野に今日寄る予定の信濃二宮の小野神社と矢彦神社がある。
 このコースは慶長年間(1596~1615)大久保長安によって設定されたが、大久保長安の遺児処刑とともに塩尻峠を通る道筋に変更され、公道としての牛頸峠は15年にして歴史的使命を終えた。


 阿礼神社は国道153号線から少し東へ入るが、道に道祖神があったので写真を撮った。日蓮宗のものらしい碑もあった。
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 塩尻東小学校があった。この隣に阿礼神社がある。
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 入口には水神様が祀られていた。井戸があったようだ。
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 石柱には「式内大宮阿礼神社」とあった。
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現地掲示より
『 延喜式内社 阿禮神社
必勝祈願の神様
 御祭神
    ・素戔鳴命 天津神(阿禮ノ神)
 相殿 ・大己貴尊 国津神(大宮ノ神)
 相殿 ・誉田別尊 応神 (八幡ノ神)
 阿禮神社は、古来より武運長久をもって篤く崇敬され、特に戦へと向かう武将たちが必勝祈願の祈りを捧げてきた。
 古くは、平城天皇の御世、延暦年間(782~802年)に、蝦夷討伐に向かう初代征夷大将軍坂上田村麻呂が必勝祈願をされ、治承4年(1181年)には、木曽義仲が当社に参拝し必勝の祈願をした後、塩尻の諸豪族や諏訪一族に挙兵を要請したとも伝えられている。
 また、三百年にわたりこの地を所領としていた小笠原氏が、天文19年(1551年)甲斐の武田信玄に追われ代々の所領を失った際にも、小笠原長時の子・貞慶が、武田氏の滅亡に乗じて、阿禮神社域にあった八幡宮で挙兵し、かつての諸豪族とともに念願の旧領回復を果たしている。
 以後、現在に至るまで、塩尻地区の氏神様であると同時に、必勝祈願、無事長寿祈願の神様として、尊崇を集めている。 』

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現地説明板より
『 式内 阿礼神社縁起
 当神社は平安朝時代醍醐天皇の延長5年(927)に撰進された延喜式神名帳登載の由緒ある古社で祭神は次の三神である。
奥宮・前宮 素盞鳴命 天ッ神 阿礼ノ神
相殿    大己貴命 国ッ神 大宮ノ神
相殿    誉田別命 応神  八幡ノ神
 往古、東山・塩尻峠西麓を流れる四沢川流域に諏訪族神氏を祖とする氏族が集落生活をしていた。
 彼等は四沢川上流の五百砥山に山祇神水分神を祀り、大神信仰の下に神の霊力を有つ山そのものを御神体として阿礼ノ神を祀った。阿礼ノ神は御生(みあ)れ神・御邑神の意で一族の守護神である。
 やがて彼等は放牧農耕の生活にも慣れ古代国家が整った頃には、他の集族も容れ、農耕文化を取入れた地域集団になっていた。そして五百砥から遙か麓の農耕可能の地域に集落を移動すると共に、諏訪明神に縁のある素盞鳴命を主祭神とし、其の子孫に当たる大己貴すなわち大国主命を相殿神とし社殿を造営して奉斎した。之は文徳天皇仁寿2年(852)に行われた。これより此の地域を明神平と謂った。阿礼神社は永く此所に鎮座された。
 平城天皇延暦年間、征夷大将軍坂上田村麿が蝦夷征討の途次、この社に戦勝を祈願した。
 高倉天皇治承4年(1180)木曾義仲が親しく此の神社に参拝、塩尻諸豪族や諏訪一族らに対し挙兵参加を要請したので諸豪族等奮って応じた。
 建久2年(1191)塩尻郷は東條・西條に区割され、地頭西條氏は諏訪明神を、地頭塩尻氏は八幡宮を勧請して氏神とした。八幡宮は現在の阿礼社域に祀られた。
 塩尻郷は治承3年(1179)以後、三百年間も小笠原氏の所領であったが、天文19年(1550)武田信玄勢に攻略され、小笠原氏居城の深志城も翌年占領された。
 しかし、32年経た天正10年(1582)に、智将小笠原貞慶は塩尻八幡宮に旗挙げしたので、塩尻衆悉く之に従軍奮戦して居城深志城を奪還した。これより前天正7年阿礼神社は兵火にて炎焼、後に塩尻八幡宮も炎上した。
 慶長19年(1614)小笠原貞慶の子秀政八幡宮再建、翌元和元年(将軍徳川秀忠時代)官命にて塩尻町が古町より新町移転、元和2年(1616)塩尻峠中仙道開通などに依り宿駅として発展するに及び、氏子は八幡社域に阿礼神社遙拝所を設け、庶民参拝の便を計ると共に、祭典には阿礼・大宮二神の八幡社への御神旅を仰いだ。
 将軍綱吉時代貞享4年(1687)に新殿造営、祭神に誉田別応神天皇を八幡神として併せ奉斎した。この時の本殿は将軍家継時代正徳4年(1714)に焼失した。
 現在の社殿は将軍吉宗時代の寛保3年(1743)に再建したものである。
 明治5年郷社に列せられた。古の素朴な集落守護神であった阿礼神社は、後世戦国武家の時代地方豪族に武運祈願の神として厚く崇敬され武将たちは戦勝報賽のため社領を寄進し、社殿を造営した。そして明神平鎮座以来阿礼神社の詞官であった塩川氏の神社管掌を保護したのである。
 近世に於いては筑南総鎮守とし、また郷党の産土神として一般の崇敬を聚めている。
  昭和52年3月6日 建之  宮司 塩川秀文 代  勲四等 小口虎雄 撰書 』


 どうも、江戸時代まではこの社地にあったのは八幡社であったようだ。八幡社域に阿礼神社遙拝所を設けたことにより、しだいに阿礼神社がメインになっていったようだ。おそらく社名まで阿礼神社となったのは、明治5年郷社に列せられたときではなかったかと憶測する。延喜式内社を名乗ることは、千年以上の歴史を持つ古社であることの証明にもなり、神社にとって名誉なことには違いない。当社が郷社から県社へ昇格したのも必勝祈願の神社として国家神道に協力した賜物であろう。

 「明治神社誌料」には、次のようにあるようだ。(ネット情報より)

『 「建御名方命天神地祇を此嶺頭に祭り、斎舟を作りて湖沼を渡り給ふ」と云ふは即ち其祭祀の跡にして今の阿禮神社の地なりと、紀に大碓命美濃國恵那郡に逃れたる由見ゆれば、此地松本平は或は同皇子終焉の地にあらざるなきか。是れ今の松本平は元美濃の同郡に属せし由なればなり。
 大同二年(807)坂上田村麻呂安曇の有明山の賊を討ずるの途次此社に参籠し、戦勝の後奉斎の為社殿を嶺上より嶺下に奉遷して諸人の参拝に便す。
 淳和の朝天長六年(829)初秋諸国疫病痘流行す。時に國守命じて、神楽を奏せしむ。神霊威応ありて悉く平癒す。尋て文徳の朝仁壽元年(851)秋郡甚大に疫せしかば、宮司阿禮首鹽川上長者開良令旨を奉じて祈請せしに疫属忽ち止みぬと、口碑亦此の如し。
 同二年(852)国司衆庶参拝の便を図り、令して現今の地に前社を建て神寶舊記を蔵めしむ。而して同時に又応神天皇を祀りしかば皇宮とも称せり。今時大宮と云ふは其轉なりと。
 後、木曽義仲の祈願所となり、國守領主の信仰社なり。天文二十二年(1553)兵火に罹りしかば、武田信玄之を造営し、神領神寶等を献ず。
 天正七年(1579)再び兵焚に焼失し近郷中にて造営しを、慶長十八年(1613)松本城主小笠原秀政之を改築し、境内取締の制礼を附す。
 正徳四年(1714)怪火あり社殿又焼く。依て信州府領の百三十八ヶ村より各寄附を募りて建立す。現今存する所の社殿是なり。古来黒印朱印の社領若干有せしが維新の際上地す。
 明治四年十一月郷社に列す。社域廣潤にして槻杉檜の大樹古木森々鬱茂し、其最も大なるに至りて實に目通り三丈餘のものあり。
 明治三十七年戦役後祈念神苑を隣接地に設け、三千餘圓を投じて一大紀念碑を建つ。陸軍省特に砲弾三個及び機関砲一門を寄せて其観を偉ならしむ。
 社殿は奥社は本殿、拝殿、鳥居、前社は本殿、拝殿、神楽殿、鳥居等を具備し、境内地奥社は八百坪、前社は1440坪あり。
境内神社
 神明社、胸肩社、鹿島社、六社、諏訪社、首取社、億和社、猿田彦社、子安社、居森殿社、天満社、津島社、金刀比羅社 』



 八幡宮は神仏習合の強い神社である。明治初頭の神仏分離の際に仏教色が一掃され、社号を阿礼神社に改め、明治5年(明治4年11月とも)に郷社に列し、明治40年9月神饌幣帛料供進神社指定された。県社に列格したのは終戦前の昭和20年5月だというので、駆け込み昇格であった。

 当社は前宮であり、同市柿沢の明神平に奥宮がある。毎年七月の例大祭(7月10日・11日)に先立ち、奥宮より上町の旅宮へ神霊を遷す儀式を行い、例祭の当日この神霊を本宮(前宮)へと迎えるという。奥宮祭が6月29日にあるが、上町の旅宮へ神霊を遷す儀式に伴うものであろう。
 これらのことから考えられるのは、阿礼神社としては前宮は未だに遙拝所の域を脱しておらず、八幡宮に間借りしている実体を抜け出していないのかもしれない。

 阿礼神社の例大祭は各地域から山車が出て、塩尻を代表する祭の一つだという。
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 現在の社殿は正徳4年(1714)に火災で焼失後、寛保3年(1743)に再建されたものだという。
 拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、妻入、間口3間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り、左右に翼舎付である。
 私は信州では「翼舎」付の拝殿をあまり見たことはない。本殿の中央に阿礼ノ神として素盞嗚命が祀られ、左右の相殿に大己貴命、誉田別命が祀られているそうだが、左右の翼舎は相殿の為のものであろうか。

 土佐国一宮の土佐神社の拝殿は、拝殿の高屋根部分からは左右に「翼殿」、前面に「拝の出」が接続し、幣殿部分も合わせて「入りトンボ様式」という。
 土佐神社の社殿を「入りトンボ様式」と言い、高知市長浜の若宮八幡宮の社殿を「出トンボ様式」というそうだ。長宗我部氏は「出トンボ」で戦勝祈願をして出陣し、「入りトンボ」で凱旋報賽したという。
 この長宗我部氏(秦氏)は信濃国から土佐国へ移った氏族である。



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 狛犬がユニークで古いものらしい。台には「復献」とあるが、足が欠けているので、復献は台だけであるようだ。
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 本殿の写真はよく撮れなかった。
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 本殿は三間社流造、銅板葺き、外壁は真壁造り板張りで、中央に素盞嗚命が祀られ、左右の相殿に大己貴命、誉田別命が祀られているようだ。

Wikipediaには次のように載る。

『 概要​
 塩尻市塩尻町に前宮、同市柿沢の明神平に奥社がある。
 前宮の本殿は三間社流造り、銅板葺きで、一間社流造りの社殿が二つ並ぶ間に、明神平の奥社を遥拝するための扉口を設けた独特の造りが見られる。
 三社は大宮八幡宮、阿禮大明神、塩尻大明神となっており、江戸時代中期の彫刻が多く施されている。戦国時代には武田氏の庇護を受け、社領の寄進を受けた。
 社伝では当初、塩尻峠の東山山麓の五百砥岩付近にあり、奈良時代に柿沢の明神平に遷移した後、江戸時代初頭の中山道塩尻宿の設置に伴い、前宮のみ宿場の西端に遷移したとされる。
 現在の氏子は、塩尻東地区の7町(上町・室町・中町・宮本町・堀の内・長畝・桟敷)で構成されている。古代東山道の宿駅「覚志駅」は当社の付近に存在したとされる。 』

 
「 前宮の本殿は三間社流造り、銅板葺きで、一間社流造りの社殿が二つ並ぶ間に、明神平の奥社を遥拝するための扉口を設けた独特の造りが見られる。三社は大宮八幡宮、阿禮大明神、塩尻大明神となっており、・・・」
 とあるので、大宮八幡宮が誉田別命、塩尻大明神が大己貴命、阿禮大明神が素盞嗚命ということになるようだ。また、中央の阿禮大明神は「明神平の奥社を遥拝するための扉口を設けた独特の造り」とあるので、阿禮大明神はここには常駐して居らず、ここはあくまでも遙拝所であったようだ。

 武田氏は甲斐源氏であり、小笠原氏は武田氏と出自を同じにするも信濃源氏を称した。源氏の氏神は八幡神であるから、武田氏や小笠原氏が八幡宮を祀るのは当然だが、阿禮大明神を祀る由縁はない。

 阿礼神社の祭神については、諸説ある。

 『神明帳考證』には、「鹽尻組之内柳澤東山麓有 古社地、今遷 社於柳澤村北、俗 云アレイ明神、大碓命」とあり、大碓命とする。

 姓氏家系大辞典には、「阿禮は河内若江郡の古姓にして景行天皇の後裔なり。姓氏録、河内皇別に阿禮首、守公同祖、大碓命の後也。按沙田、阿禮、共景行皇子也。と見ゆ。」とある。

 『神社覈録』は、『神明帳考證』や姓氏録から引いて、「祭神阿禮首祖神。鹽尻驛に在す。考証云、鹽尻組之内柳澤東山麓有 古社地。今還 社於柳澤村。姓氏録、安曇宿禰、海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也。」とあり、安曇氏の穂高見命の後裔とする。

 祭神を「穂高見命の後裔」とする説は、安曇氏は安曇野に穂高神社を祀ったので、松本平の南の塩尻に足跡があったとしても不思議ではないが、祭神を「大碓命」とする説は少し驚く。

 「明治神社誌料」には、「紀に大碓命美濃國恵那郡に逃れたる由見ゆれば、此地松本平は或は同皇子終焉の地にあらざるなきか。是れ今の松本平は元美濃の同郡に属せし由なればなり。」とあるのも気になる。
 美濃國恵那郡とは、長野県と岐阜県の県境にある恵那山(2191m)の西側(岐阜県側)と考えられるが、現在は恵那山の北東の神坂山の下を中央高速道の恵那山トンネルが抜けている。東山道はこの峠を越えて、天竜川に沿って伊那谷を北上し諏訪に至った。江戸時代以降は専ら中山道(木曽路)が使われた。
 「今の松本平は元美濃の同郡(恵那郡)に属せし由」とあるが、松本平の南部が美濃や三河・遠江の文化圏の影響を受けたとしても、松本平が恵那郡に属していたということは考えられない。


 景行天皇には皇子が沢山いたが、大碓命と小碓命は双子で、弟とされる小碓命とは日本武尊(ヤマトタケル)のことである。
 しかし、大碓命にはヤマトタケル誕生以前の景行天皇4年に美濃に遣わされた記録があり矛盾する。
 『古事記』によれば、景行天皇が大根王(三野国造の祖)の娘の兄比売・弟比売姉妹が美人であると聞き、大碓命がその視察に遣わされた。しかし大碓命は密通し、天皇には偽って別の女性を献じた。そして大碓命は、兄比売とは押黒之兄日子王を、弟比売とは押黒弟日子王を儲け、押黒之兄日子王は三野之宇泥須和気の祖に、押黒弟日子王は牟宜都君(牟義都国造)らの祖になったという。
 大碓命の墓は、宮内庁により愛知県豊田市猿投町鷲取の猿投神社内にある大碓命墓に治定されている。
 上記の墓は猿投山の山中、猿投神社の西宮後方に所在する。この猿投神社では、大碓命は主祭神に祀られている。同社社伝によれば、大碓命は美濃に封じられてのち当地方の開拓に尽くしたが、景行天皇52年に猿投山に登る中途で蛇毒のため42歳で亡くなったという。
 私は猿投神社を訪れているが、まだ、まとめるには至っていない。

 松本藩により享保7年(1722)に成立した『信府統記』には、社伝や口碑の伝えるところとして次のように載る。
『 素戔嗚尊出雲簸ノ川上ノ大蛇ヲ平ケタル後、科野國鹽川ノ荒彦山ノ惡鬼ヲモ其の寶劔モテ斬リ平ケタルニヨリ其ノ徳ヲ祭ル。即チ尊此ノ嶺ニ現シ玉ヒシナリ云々 』

 ここに出てくる荒彦山とは、今の東山にある五百砥山(五百渡山)であり、鹽川はその下を流れる四尾澤川(四沢川)だという。

 『平成祭データ』には、
「 創建の年月は不詳なるも延喜式神名帳に登載された古社である。五百渡山(いおとやま)に鎮座が阿禮神社の発祥で、此れが何時の時代か明かではないが、其後大同二年(807) 坂上田村麻呂将軍が明神平(現奥社所在地)に奉遷、更に仁寿二年(852)現在地(大字塩尻町六番地)に前宮を造営して遷座した。此の時合殿に誉田別尊・大己貴命を奉祀した。 」
 とある。
 しかし、私は現社地に前宮ができたのは、江戸時代に遙拝所としてできたのではないかと思う。

 また、「式内社調査報告」には、祭祀遺跡として次のように載る。
「 五百砥山御旧蹟地、現在は五百渡山と書く。所在地、阿禮神社前社より東方凡三〇町、同奥社より東方凡二〇町、鉢伏山支脈塩尻峠の北方にあり、塩尻町の中央を流れる田澤川の水源地の丘陵なり。
 御湯立ヶ原所在地、奥社明神平と御旧蹟地五百砥山との中間の高原を御湯ヶ原と云ふ。由緒、五百砥登山に困難なりし爲め、此の高原にて遙拝式を行へる遣跡なり。現在此の高原の一端に碑を立てて保存し、毎年五月一日、五百砥山祭の時、碑前にて修祓の式を行ふを例とする。 」

 現在でも阿礼神社の神事として5月1日に五百砥祭が行われている。
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 また、「鉢伏山支脈塩尻峠の北方にあり・・・」とあり、塩尻峠を鉢伏山の支脈とする見方があるようだ。
 この鉢伏山支脈である、横峰、高ボッチ山、東山、塩尻峠に赤○をしてみた。
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 私は長野から神奈川へ帰るときに、国道19号線から国道20号線を使うことがある。
 松本市内や塩尻市内の国道19号線の渋滞を避けるために、東の山側を走る県道63号線(松本塩尻線)、更にはその東を走る道路で長畝まで出て国道20号線に乗ることがある。
 
 鉢伏山の西麓にある牛伏寺(ごふくじ)にも寄ったことがある。
 また片丘には母方の祖母の実家がある。祖父は北信に住んでいたが、教員をしていた時期があり、長野県は今でも全県人事であるが、中信の小学校に赴任していたときに祖母と知り合って恋愛結婚をした。私や母は「・・・ずら」を遣わないが、中信出身の祖母は「・・・ずら」と言うのでお国が知れた。
 祖母はブドウがなる秋に、里帰りした実家で亡くなった。いつもは一人で実家へ帰るのだが、この時は高校が休みであったので私が祖母に付き添った。祖母の実家周辺を、借りた自転車で走ったことを思い出す。数日後に祖母の訃報がとどいた時には驚いた。


 松本盆地の南端には、往古、東山・塩尻峠西麓を流れる四沢川流域に諏訪族神氏を祖とする氏族が集落生活をしていて、四沢川上流の五百砥山に山祇神水分神を祀り、大神信仰の下に神の霊力を有つ山そのものを御神体として阿礼ノ神を祀ったという。
 この阿礼ノ神を素戔鳴命としたのは、『信府統記』にあるように、 素戔嗚尊が出雲簸ノ川上流の大蛇(八岐大蛇)を退治した後、科野国鹽川ノ荒彦山(五百渡山)の悪鬼をその宝剣で斬って退治したので祭ったという社伝や口碑によるものであろう。

 松本盆地には犀竜の伝説があるし、諏訪湖にも竜神が棲むという。琵琶湖から流れ出す川は天竜川という。
 出雲でスサノオが斬ったのは八岐大蛇であるから、スサノオが荒彦山(五百渡山)で斬った悪鬼とは竜神(水神)につながる神であろう。
 諏訪族神氏を祖とする氏族は四沢川上流の五百砥山に山祇神水分神を祀ったというので、この水神を悪鬼としてスサノオが斬ったのかもしれない。
 これは、スサノオを奉じる外来氏族により、この地域の祭祀が変えられたことを示しているように思われる。
 恐らく、この地域の祭祀が変えられたのは、大同2年(807)の坂上田村麻呂の参拝のときであり、仁寿2年(852)に明神平の奥宮へ遷座したときには、阿礼ノ神はスサノオとして祀られていたのであろう。スサノオは薬師如来とも習合する神でもある。疫病を止めたという伝承にも合致する。

 また、治承4年(1181年)には、木曽義仲が当社に参拝し必勝の祈願をしたというが、これは奥宮であったと考えられる。スサノオは武神でもある。


 阿礼ノ神は御生(みあ)れ神・御邑神の意で一族の守護神であるという。
 阿礼で連想するのは、和銅5年(712年)成立の『古事記』で有名な稗田阿礼である。
 成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた上述の『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものである。

 ここで注目するのは『古事記』を編纂した太安万侶は多氏であり、諏訪大社下社の創建に関わった信濃国造は多氏であることだ。
 『古事記』の国譲り神話で、最後まで抵抗したとされる建御名方神(大国主命の子)は、出雲を追われて諏訪まで逃げて、諏訪に逼塞した。建御名方神は諏訪大社に祀られる諏訪神である。しかし、『日本書紀』の国譲り神話にはタケミナカタは登場しないし、大国主命の系譜にもタケミナカタの名はない。

 太安万侶は諏訪地方での諏訪神の交替(初源の諏訪神から建御名方神への交替)を諏訪においての国譲りとみて、それをヒントに出雲の国譲りに脚色を加えたのかもしれない。

 多氏である太安万侶が編纂した『古事記』において、出雲の国譲り神話においての建御名方神の登場は、彼によるオリジナルであり、それは諏訪地方の伝説や伝承からヒントを得たものであったのかもしれない。そしてそれは時の権力者であった藤原不比等の要請でもあったのかもしれない。
 建御名方神を出雲から追ったとされる建御雷神と経津主神は鹿島神宮と香取神宮に祀られるが、共に藤原氏の氏神として春日大社に勧請されている。

 私は全国一の宮巡りをやっており、最後の一宮を故郷である信濃国一宮の諏訪大社と決めているが、諏訪大社は上社と下社があり、その成立過程が異なる。後世には一体とした信仰を形づくるが、その謎と闇は深い。

 この阿礼神社を祀る地域の祭祀も、諏訪大社同様に信濃国造や朝廷の手で改変されている可能性がある。
 塩尻峠を越えれば、そこは岡谷で、その先には諏訪大社の下社がある。
 阿礼神を祀ったのは、諏訪族神氏だという。この地域の祭祀が諏訪大社の祭祀の影響を受けないわけはなかったであろう。


 高ボッチ山や高ボッチ高原の名は、巨人伝説のダイダラボッチから来ている。
 柳田國男は、ダイダラボッチはダイダラ坊とも言い、「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしている。
 法師がつくのであれば多少の仏教要素が入っているのかもしれない。

 ダイダラボッチの伝説は湖と関係するものが多い。ダイダラボッチが山を造ろうと土を運び、その跡に水がたまって湖になったとか、ダイダラボッチの足跡に水がたまって湖になったとかである。
 長野県でダイダラボッチ伝説を拾うと、大町市北部の青木湖、中綱湖、木崎湖からなる仁科三湖はいずれもダイダラボッチの足あとであるとされるし、戸隠山の大座法師池の名はダイダラボッチ(大太郎法師)からの命名だという。
 そして塩尻市の高ボッチ高原はダイダラボッチが腰を下ろして一休みした場所であるという。おそらくこのダイダラボッチと諏訪湖は関係があるのだろう。


 アニメ映画「君の名は。」の新海誠監督の出身地は、長野県南佐久郡小海町であるから、映画に登場する「糸守湖」は、松原湖や諏訪湖がモデルとされる。

 アニメ映画「君の名は。」については、『旅963 落合神社 と 3つの川上神社』で触れた。

 諏訪湖も「糸守湖」のモデルの一つとされるので、映画公開直後は高ボッチ高原から諏訪湖を見おろすために多くのファンが訪れるようになったという。
 高ボッチ山からは、諏訪湖全域を見下ろすことができ、特に夜景が人気があるそうだ。
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 高ボッチ山からは伊那谷まで見渡せるし、富士山も見えるという。

 夜景フォトギャラリーサイト「高ボッチ高原 山頂の夜景スポット情報」にリンクを張っておく。

 テニス仲間に、富士山の写真などを撮るのを趣味にしている人がいる。そのMさんが、高ボッチ高原のことを話していたが、恐らく富士山の写真を撮るポイントの一つなのであろう。Mさんがもし高ボッチ高原に出かけるのであれば同行して、諏訪の温泉につかり、美味い酒(宮坂酒造の「真澄」など)を飲みたいものである。

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