旅 933 藤林寺 ・ 高知坐神社 ・ 高岡山古墳 ・ 平田曽我山古墳 (1)

2016年 10月30日
藤林寺 ・ 高知坐神社 ・ 高岡山古墳 ・ 平田曽我山古墳 (1)

 10月27日に岡豊城跡へ行ったときに高知県立歴史民俗資料館に寄り、『ものがたり考古学 土佐国辺路五十年』という本を買った。
 この本を買ったのは、定価が2800円だがかなり安く売られていたからだ。安かったのは1994年(平成6年)発行で古くなったからであろう。著者の岡本健児さんは1920年(大正9年)生まれなので、既に亡くなっているのであろう。

 その本に、「高岡山一号墳」「高岡山二号墳」「曽我山古墳」があったので、寄ってみたくなって、宿毛市平田町にやって来た。
 それらの古墳は既に消滅していることは本で知っていたが、場所だけでも確認したいと考え、石碑があるようなのでそれを探したいと思って走り廻ったが、残念ながら発見できなかった。

 岡本健児さんが書いた『ものがたり考古学 土佐国辺路五十年』は安売りされていたことからも、在庫が尽きれば再販されることはなく絶版になるのだろう。何かの縁でこの本に出合ったのだから、これらの消滅した古墳について、ブログで彼の論考を紹介することも先学への追善になるのではないかと考えるので、あとで載せたい。


 古墳の碑は見つけることができなかったが、ここへ来る直前に一條神社へ寄ったので、一条房家の墓のある藤林寺と式内社の高知坐神社には寄った。

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藤林寺 (宿毛市平田町戸内)

 藤林寺(とうりんじ)は土佐一条氏の房家の菩提寺で、房家らの墓がある。
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 境内で写真を撮っていると、住職の息子さんと思われる人が出てきたので、房家公の墓の場所を訊くと、丁寧に対応してくれた。
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 苔むした階段のうえには 一条房家の墓と近親者とみられる墓が並んでいたが、それらが房冬、房基のものかは分からない。

 平田は当時から幡多随一の穀倉地帯で、土佐一条家の重要な領地のひとつだった。一条房家は生前、この山に咲きほこっていた藤の花のあまりの見事さに感動し、自分の菩提寺を建てさせたといわれている。

 比較的新しい「開基家五輪塔」が建立されていた。
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 墓誌には次のようにあった。

『 土佐一條家
当寺開基
 藤林寺殿東泉大居士
 房家公、文明9年(1477)生、土佐国司初代
 天文8年(1539)11月13日没 63才

 圓明院殿明叟圓公大居士
房冬公、明応7年(1498)生
 天文10年(1541)11月6日歿 44才

 光壽寺殿香齋桃莱大居士
 房基公、大永2年(1522)生
 天文18年(1549)4月12日歿 28才

 天眞院殿自得宗性大居士
 兼定公、天文12年(1549)生
 天正13年(1585)7月1日歿 43才

 天叟院殿守有大居士
 内政公、天文8年(1580)2月15日歿

 妙華寺殿従一位前殿下
 教房公、応永30年(1423)生 土佐一條元祖
 文明12年(1480)10月5日歿 58才 』


 京から下向した一条教房の墓は中村にあるが、墓誌の最後には“土佐一條元祖”として教房の名も刻まれている。



 藤林寺には市無形文化財に指定されている「ヤーサイ」(夜祭、野菜祭)がある。
 『宿毛市広報昭和62年8月号』には次のようにあった。

『 ヤーサイ(野菜祭)
 平田町戸内の藤林寺では、8月16日(昭和56年までは旧の7月16日であった)にヤーサイと呼ばれる珍しい行事が行われている。
 藤林寺は一条房家の菩提寺で境内には房家の墓もある。この祭りは一条氏時代からのもので由緒ある祭である。各家々では一本ずつの竹を必ず自分で切り、寺の境内の片隅まで持参しておく。
 当日の夕方になると寺の本堂で住職と役員とで無縁仏を祭る施餓鬼を行い、房家の墓へお参りする。施餓鬼がはじまると同時に竹まわしの行事もはじまる。

 村人たちは各自の竹を立てて土俵の周りに集まる。その先頭には太鼓たたきと音頭とりが居り、音頭とりは茄子、不老(豆科のささげ)、新穀などをつけた小さな竹を持つ。
 音頭とりが「一条公のカレイを申す」と唱え、さらに、「ヤレソレ音頭についてこい」といえば、村人たちは「音頭についてまえ」といって土俵の周りを七回まわって停止する。これを3回繰り返して竹を隅にたおして竹まわしの行事が終わる。

 引き続き盆踊りが寺の境内ではじまる。土俵の上にはやぐらが置かれ、その周りで曽我兄弟、那須与一など軍書や歌舞伎に由来した踊りが古式の衣装で数多く行われる。また最近では、その中間に近代的な民謡の踊りも取り入れられている。

 踊りが終わるとやぐらまわしである。若者数十人がやぐらをかき上げて土俵の上下でぐるぐるとまわす。まさにスリル満点、その後は夜明け近くまで夜相撲が奉納される。
 江戸時代に書かれた「藤林寺記」には「此の祭を夜祭という。又、野菜祭ともいう。往古都人鴨川の辺りにて新穀、不老、茄子類の野菜を持ち集まり亡霊を祭る故野菜祭ともいう。一条公御時代の遺風と申伝え、一国中外に類例なし」と書かれている。
 昭和38年宿毛市の無形民俗文化財に指定。 』
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 「竹回し」は、房家の時代に平田の領民が捧げものをするさい、「身分の高い方に直接お渡しするのはおそれ多い」として竹の先に結んで進呈したことが由来だとも、一条家に京都時代から伝わる施餓鬼行事が由来だともいわれる独特な行事で、500年以上、地元民によって大切に伝えられてきた伝統の祭りだという。

 祭りのハイライトである「口説き盆踊り」は、その本格的な衣装と、刀や槍などの小物、隈取をほどこした踊り子の化粧が夏の宵に幻想的に映え、とても勇壮で美しい踊りだとされる。この祭りは平田では、近在の老若男女の一大娯楽、あるいは社交の場でもあるという。ネットに写真があったのでお借りして載せる。
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 寺の前の水田の中に、一条兼定の愛人雪女入水自殺の地に供養の自然石が立っているというので行ってみた。
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 宿毛市平田町には、土佐一条氏の5代当主で、実質的には最後の当主となった一条兼定と、庄屋の娘・お雪の悲恋物語が残されている。
 兼定が平田に鷹狩に来た際、水を飲むために立ち寄った庄屋(源左衛門宅)で、そこの娘・お雪に一目ぼれしたという。兼定22歳、お雪17歳のことで、その後、兼定は毎日のように平田に通い、立派な屋敷(平田御殿)まで建てて、放蕩を尽くしたという。
 あるとき、遊びほうけて政務をおろそかにしている兼定を、筆頭家老の土居宗珊(そうさん)が諫めたが、兼定は逆にこれを手打ちにしてしまったという。
 いよいよ手に負えないということで、家臣たちは平田御殿にでかける兼定をとらえて幽閉し、隠居させたという。お雪は、兼定に二度と会えないことを悲しんで、川に身を投げたという。

 16世紀には、土佐中部・東部で長宗我部氏が支配を固めた。1571年頃、一条氏に従っていた姫野々城の津野氏と久礼城の佐竹氏が長宗我部氏に服属すると、一条氏の家臣団は和平派と反長宗我部派に分裂し、1573年(天正元年)、和平派が一条兼定に隠居を迫り一条内政(ただまさ)を擁立したという。
 兼定は反長宗我部派であったのだろう。しかし、このような伝承が残るのは、暗君でもあったのだろう。
 一条兼定は、妻の実家大友宗麟を頼って中村から落ち、翌1574年(天正2年)に宗麟の支援を受けて中村の奪還を図ったが、四万十川の戦い(渡川の戦い)で敗れ、宇和島の戸島に幽閉されて1585年、44年の生涯を閉じた。
 長宗我部元親は一条内政を長岡郡大津城(現高知市)に移した。内政は後に波川玄蕃の謀反に与して追放され、土佐の名家一条家はここに滅亡した。

 平田の人は領主に優しい。地元では兼定とお雪のことを“悲恋”として語り継ぎ、歌と踊りにしてヤーサイの「口説き盆踊り」で踊ったという。
 “口説き”と名が付く盆踊りであるから、昔は男女の出逢いの場でもあったのだろう。かつて祭の夜は無礼講であった。今でもヤーサイでは女子は勇壮に、男子は優しげに自分の魅力をアピールする場なのかもしれない。今や肉食女子と草食男子の時代なのであろうか。



高知坐神社(たかちにますじんじゃ)

 高知坐神社は、高知県宿毛市平田町戸内にある式内社で、旧社格は郷社である。
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 平成28年5月1日発行の「高知県神社庁報」に次のようにある。

『 土佐史の神々357 都佐と波多国造の神々 広谷喜十郎
 『高知県歴史年表』(高知市民図書館刊)の始まりには、〈崇神天皇代(前97~80)天韓襲命(あまのからそのみこと)を土佐国波多の国造とす〉とある。続けて〈成務天皇代(後181~191)小立足尼を土佐の国造とす〉と。
 山本大著『高知県の歴史』(山川出版社)では、これらの記述は〈『先代旧事本紀』所収の「国造本紀」によると〉している。そして〈伝承的要素の濃い頃では、はっきりしたことはわからないが、古くは土佐には波多・都佐の二国があったであろう。波多は現在の幡多郡と考えられ、この地の国造は都佐の国造よりもはやく設置されているようである。これは幡多地方が北九州や畿内方面と交渉があったことを物語るものであろう(略)国造は、一般に7世紀頃、地方豪族が大和朝廷より地方官として任命されたと云われるが、土佐の場合、6世紀の初め頃まで置かれたのではなかろうか(略)のち朝廷から派遣される国造にきりかえられていったようである〉と、纏めている。

 都佐の国造については、戦前から何かと論議されているが、山本氏は〈大田亮著『姓氏家系大辞典』のなかで、三島氏について「四国東南部なる(略)阿波にその族人の最も多い事はいつの世か(略)族人が摂津から阿波に移り、漸次土佐一円に蔓延したことを表しているように思ふ」といっている。伝説にもとづくもので確実なことは解らないが、都佐の国造に三島溝杭の子孫の小立足尼がいたとの伝えを信ずるほかにいたしかたあるまい〉と、述べている。それに、波多国造については、何らの伝承も残されていないので、解らないと云う。

 戦後になり、古代遺跡の発掘調査研究の成果をふまえて、考古学者・岡本健児氏は『日本の古代遺跡・高知』(保育社刊)のなかで、〈国分川最下流域は、古くは土佐国造の所在であったかもしれない。高知市一宮の土佐神社は、『日本書紀』の天武天皇の条に、「土佐大神」と称され、いわば土佐国造の斎く神であったろう。この神社(都佐坐神社、そして土佐高賀茂神社、今の土佐神社)は国分川河口に近い右岸にある。その土佐神社の西方300mの国道32号線沿いの高知市一宮太古橋には、今は忘失してしまったが、一宮大塚古墳が1890年(明治23年)頃まであった。記録によると、現在残っている南国市の小蓮古墳と肩を並べる程の大きな横穴式石室をもったもので、高知県では珍しい馬鐸が出土している〉という。
 なお、同氏の『土佐神道考古学』(高知県神社庁刊)の「神社と古墳(太古橋の由来)」の項で詳述されているが、〈大塚は大きな古墳(塚)からきた名称とも考えられるが(略)大塚の被葬者は土佐大神(ずっと古いころ)の土佐神社の祭神を斎きまつった土佐国造であったかもしれない〉と、その可能性を指摘している。

 波多国造の所在地を知ることの古代遺跡が相次いで発見されている。それを岡本氏は〈高岡山古墳群と曽我山古墳は、四万十川支流・中筋川の宿毛市平田町に位置する。平田町は『和名抄』の枚田(ひらだ)郷であり、同町内には式内社高知坐神社がある〉(『日本の古代遺跡・高知』)と述べている。
 高岡山一号墳は、二号墳より奥地の480mの山の尾根にあった。この遺跡からヒスイ製の勾玉一個、小刀一振り、筒型銅器一個が出土している。なかでも珍しいのが筒型銅器で、全国でも20数例しか出土していない。この銅器は杖の握りの部分に付けた飾りだと考えられ、埋葬者の権力的シンボルの「聖杖」だとしている。

 岡本氏は、二号墳について〈葬られたのは「波多」(略)の卑弥呼だったと思うのです〉と指摘している。此処からは、碧玉製の腕輪と、「日如月」の文字が読み取れる前漢製の鏡が出土しているので女性の権力者が埋葬されたとしている。この女性は、呪術的な力を持っていたろうと考察されている。その一つに、鏡が壊されているのも彼女の霊力を恐れての行為だった可能性を挙げている。

 続いて、同町内から発見された4世紀後半の前方後円墳は、昭和24年に平田中学校の造成中に発見されたものである。円墳とは違い、前方後円墳という大きなものは、中央政権の許可がいるので、ここに葬られた人物は、かなりの権力者であり、高岡山古墳の人物の後継者的な存在だと岡本氏は、述べている。ここから出土したものは、鏡が二個、太刀・鉄矛(一説には鉄銛)で、鏡の一つは獣首鏡で、想像上の獣の顔を描いた後漢製である。もう一つは、獣形鏡で、これは大和政権から授けられたものであろうと推測されている。この古墳の主は武人的豪族であったと考えられるとされる。

 岡本健児氏は、『土佐神道考古学』のなかで、〈曽我山古墳の近くに式内社高知坐神社が鎮座(略)国造はその地方の支配と支配する国を鎮める社を祀ったものである。このような社は、古社であるから平安時代の式内社にされたのである。都佐国造がいつき祀る都佐神社は、古く『日本書紀』をみると「土佐大神」と称していることと同じように波多国造のいつきまつった高知坐神社は、その創建は波多大神ととなえまつったのではなかろうか〉と、推考している。 』

 この「高知県神社庁報」は社務所に掲示してあったものだが、岡本健児さんの名があったので、全文掲載した。


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 拝殿は瓦葺きで神社のようではない。そしてかなり老朽化している。

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現地石碑より
『 由緒史碑文
 この社の創祀鎮座については土佐古代史式内社考証国造本紀高知県の考古学神社史料により皇紀十代崇神天皇波多国造主天韓襲命の頃と云われる。今の幡多の守護神として奉祀せると云う。
 神道考古学の研究では弥生初期当地方の原始水田稲づくり集落の始まる頃であり境内よりすでに多くの石器須恵器土師器を収集している。いづれも大和朝より平安初代に至る年代を物語る。
 今日姿を失った曽我山古墳の主は波多国造主とも考証されている。当社と深いつながりを有している。千九十余年の前藤原の時平は勅命により延喜式神名帳を選定し土佐の二十一社を定め幡多三社を選んでいる。入野加茂神社下ノ加江伊豆田神社この社を示している。
 奈良朝后期より国司領主の崇敬厚く社の修復宝物の献奉など文献史料示されている。宝永3年谷泰山重遠は土佐式内社考を刊行している。土佐幽考及和名抄光仁天皇宝亀9年に幡多五郷在り枚田郷戸内村に高知坐大明神有高持の者の社也。都味歯八重事代主神は大和国高市の社又波多神社と同神也と云う。幡多地方の最古の社と云う。
 現在の本殿下には磐座有。上古の神体と云はれている。本殿は明和5年11月江戸中期の桃山式を残すとして昭和30年2月県の有形文化財である。
 昭和26、27年神社の合併の議有により神社本庁の承認により曽我神社外七社をこの社の境内社としている。又昭和21年より国家神道の中止宗教法人の施行により神社は法人となり前宮司篠田善吉より現任宮司となりている。この神奈備の森が古代を語る国造主の遺跡であることすでに土佐古代史により考証されている。今后国の重要文化財指定を念ずると共に前宮司の残せし功績を示針とし益々神明奉仕に保存管理を期するものである。
 現在土佐の神道考古学の上から論証されている上古の社は高知市一宮土佐神社 朝倉神社 南国市朝峯神社が上古の神奈備森と云はれている。昭和30年初より念願の石文を誌す也、幡多五郷は現在の入野郷、大方町不破郷、中村市鯨野(いさの)郷、土佐清水市山田郷、今の山奈を呼んでいる。土佐古代史考古学の研究では、波多国造主と都佐国造主の2つが大和朝13代成務天皇の頃1つとなると云う。小立足尼と呼んでいる延喜式内社の鎮座せる近くには古代の遺跡古墳を有していることを語るべき也。
 この社の北西方には聖武天皇神亀元年開山と云う39番延光寺在り、南東方には治承初年と云う平田太郎俊遠の二重山城跡有、又西方に天文初年開山と云う一条初代房家二代房冬公土佐一条国司の墓地藤林寺在り、又年代未詳の兼松城布本城跡等在り、北方に弥生初期と云う高岡山古墳を有する。この社と深い関係有りと云う土佐国年記事略古成略史寺院誌歴史年表を参考とするこの社の古式大祭日は旧9月22日とされている。
 昭和20年1月内務省より県社の内示有るも神道指令にて中止される。天文初代より宮林藤原の臣幡多郡和田村住の神主の奉仕により大正初期迄14代と有しが松平藤佐神職辞任により大正10年10月より前篠田善吉宮司就任となる。旧幡多郡奥屋内村より現代に至る篠田源八郎藤原朝臣重里の子孫也。
 温故知新の言葉がある。古きを尋ねて現代に照せと解する。平田郷土に生まれ育つ我々は遠い祖先の歩み行いしことがらを思考し、今日あるを静かに省みる時、自然の理(ことわり)と神■ の恩頼加護を受けているを痛感するものである。昭和40年5月宮司■■より神の命示として朝夕に奉仕し古典に則り神道国学本義の理念を有■つ 今后共古代史郷土史研究に歩む者である。  』  


 宿毛市指定天然記念物のいちいがしがあった。
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現地説明板より
『 高知座神社のイチイガシ
1.樹種 イチイガシ
2.樹齢 400年(推定)
3.胸高直径 135cm
4.樹高 29.0m
 昭和38年7月24日・宿毛市天然記念物に指定
 高知座(たかちにいます)神社は、波多の国造(くにのみやっこ)が祀った社で、祭神は賀茂系の神とされる。
 本殿は高知県有形文化財の指定を受けており、一条房基の造営を示す1544年(天文13年)の棟札がある古い社であり、地区民は農作物の豊作祈願の祭りを行う等、親しまれている。
 このイチイガシは社叢内で最大級の木であり、神社林の主木的存在である。
  保存管理者:高知座神社・高知県緑化推進委員会 』


石碑より
『 高知座神社修復記念碑
 神社の創立は土佐古代史考古学神社史料により皇紀10代崇神天皇波多国造朝といわれる。平安時代初明藤原時平の勅撰した延喜式神名帳にのる土佐21座幡多3社の一であり国司領主の崇敬厚くいくたびか社殿の造営あり。元久初年より天文13年4月土佐一条三代房基氏より現本殿、明和5年11月宿毛領主山内源蔵橘氏篤の修復により江戸中期二百十余年を経ている。昭和30年2月15日県有形文化財指定を受く。明治42年11月及昭和12年11月旧平田村氏子中前宮司篠田善吉等により修理せるも年月の老朽白蟻の損害多くして県市の修理費広く町内氏子有志の募金により、総工費488万2千余円により昭和52年10月23日本殿幣殿を修復したものである。平田郷土の歴史の森であり、幡多地方の古代を語る古社として永く石碑に設し永遠に守り伝えるものである。
 昭和53年4月吉日  宮司 篠田俊昭 誌す   』


 本殿は県の有形文化財に指定されているが、覆屋で覆われ外からガラス越しに見られるだけで内部をよく見ることはできない。ガラスで反射するので写真を撮ることもやめた。

 主祭神は都味歯八重事代主神で、右相殿に大国主尊、左相殿に素盞嗚尊を祀る。
 『土佐国式社考』では、主祭神の神体を青黒玉石とし、相殿左神の神体を青石、相殿右神の神体を木像とする。

 本殿の左右に左宮と右宮があり、各地区から合祀された神社が祀られている。
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左宮
 聖神社:北川地区の氏神様
 皇太子宮:寺尾地区の氏神様
 曾我神社:師高瀬、森、車岡、徳師、清水地区の氏神様
 天満宮:沖前地区の氏神様

右宮
 柴折神社:下駄場地区の氏神様
 仁井田神社:橋田、奥黒川、岡松地区の氏神様
 大船神社:橋田、西須賀地区の氏神様
 飛龍神社:上駄場地区の氏神様
 鷣高神社:広井地区の氏神様



 『延喜式』神名帳では「高知坐神社(高知に鎮座する神の社)」とのみ記され、祭神を明らかとしない。
 この神社名の「高知(たかち)」は、現在の高知(こうち)の地名とは関係ない。高知(こうち)の地名は江戸時代に、河中 → 高智 → 高知 と変遷して成立したものである。  高知(たかち)は、文献上では「高地」・「高持」とも見える。
 
 Wikipediaには次のように載る。

『 歴史
 創建は不詳。付近では高知県で代表的古墳の1つである平田曽我山古墳(消滅)の築造が知られ、同古墳と当社を波多国造の墳墓・祭祀地と想定する説が挙げられている。
 『先代旧事本紀』「国造本紀」では第10代崇神天皇の時に天韓襲命(あまのからそのみこと)が波多国造に定められたと見え、創建をこの頃とする説もあるが詳らかではない。
 境内地では祭祀遺跡の存在が知られ、平安時代の土師器・須恵器・甕が出土しているほか、縄文時代晩期の打製石斧も見つかっている。
 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では土佐国幡多郡に「高知坐神社」と記載され、式内社に列している。
 『和名抄』に見える地名のうちでは、現鎮座地は幡多郡枚田郷(ひらたごう、異本では牧田郷)に比定される。[ 牧田郷は枚田郷の誤記と考えられている]
 中世期には、元久2年(1205年)に社殿修理のことがあったほか、長福寺が別当寺であった。
 『南路志』所引の応永6年(1399年)の鰐口銘では「高地之大明神」と見えるほか、同書所引の天文13年(1544年)の棟札には「高持者大明神」と見え、土佐一条氏4代当主の一条房基がその造営を実施している。
 天正17年(1589年)の「山田郷内平田村地検帳」では「高持社」と見え、11代4歩の宮床と宝殿・舞殿・横殿の存在が記される。
 江戸時代には、宿毛土居の土佐藩家老の山内氏(安東氏)から崇敬を受け、明和5年(1768年)には7代山内氏篤によって現在の本殿が再建された。
 明治維新後、近代社格制度において郷社に列している。  』


 この神社のキーワードは、古墳であり、古墳の被葬者と関係した一族が祀った古社であることを主張する。
 私もそのことを否定しない。しかし、肝心な高岡山古墳も曽我山古墳も開発の名の下に消滅している。
 私は高知坐神社を訪れて、残念ながら寂れているように感じた。当社が古墳との関係を語り、波多国造との関係を語るように、古墳はこの地域の古代を語るとき重要な存在だったように考える。その古墳を失ったとき、既に当社の凋落が定められたのかもしれない。

 旅人は目に見えるものを求めて旅をし、目で見て、耳で聞いて、風を感じて、知り得ることを悦とする。史料だけで歴史を語られても実感を伴わない。

 人が生きていくためには開発は大事である。しかし、残そうとする努力がなければ、過去を語るものは残せないのが現実である。失われたものを取り戻すことはできないので、詮無いことではあるが、誰かが声を上げれば少し違った展開があったのではないかと悔やまれる。

 碑文の最後に、「平田郷土に生まれ育つ我々は遠い祖先の歩み行いしことがらを思考し、今日あるを静かに省みる時、自然の理(ことわり)と神■ の恩頼加護を受けているを痛感するものである。」とあったが、その通りである。残すべきものは石碑ではなく、他のもの(古墳)だったのではないだろうか。

 私の故郷には森将軍塚古墳がある。この古墳も古墳の周辺で埋め立て用の土砂採取が始まり、古墳が危機にさらされたことがあった。調査により古墳時代前期の貴重な古墳だと分かり、市民、専門家、行政が一体になって保存運動が始まった。保存運動では、市内(旧更埴市)の全世帯の9割もの保存を求める署名が集まったという。
 現在でも古墳の草取りなどがボランティアにより行われていると聞く。


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