旅 520 沙沙貴神社(2)

2015年 8月22日
沙沙貴神社(2)
 磐境が祀られている場所の入口の左側には、「古事記 天之羅摩船(あめのかがみのふね)」とあった。どうやら古事記の少彦名命に関する部分の記述にあるらしい。 
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 説明文として次のように書いてあった。
『 少彦名神さまが、あずきに似たササゲ この豆のサヤの船に乗り海を渡ってササキの郷に来た。それがササキ神社の始まりと云う伝説がある。 』

 更に境内の掲示には次のようにあった。
『 少彦名神さまはササゲの豆の鞘に乗って海を渡ってこられたことからササキ神社と言われるようになったという伝説があります。
 大國主神さま(大己貴神さま)と少彦名神さまは力を合わせて國をおさめられました。少彦名神さまは大変物知りで子供を無事に産み丈夫に育つようにお守りしたり、蚕を飼って絹をとることや病気に良く効く薬を教えたり、味噌・醤油・お酒をつくる醸造のこと、そしてお百姓の道具の造り方も教えました。
 このお力のおかげで今に至るまで“みたまのふゆ”[恩頼]をこうむり、みんなが幸せに暮らせるようになりました。
 近江の國 沙沙貴神社 』

 少彦名がササゲの豆の鞘に乗って海を渡ってきたので「ササキ神社」とは、語呂合わせもいいところだ。
 仁徳天皇も『古事記』では大雀命(おほさざきのみこと)、『日本書記』では大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)といわれるので、「ササキ神社」の祭神になったという語呂合わせがまかり通っている。

 仁徳天皇の父は応神天皇とされる。応神天皇には多くの妃がいた。子としては大鷦鷯尊(母は仲姫命)、大山守皇子(母は高城入姫命)、菟道稚郎子皇子(母は宮主宅媛)などがいた。
 大山守皇子は皇位を狙ったが殺害された。菟道稚郎子皇子は皇位継承者とされたが、百済から来朝した阿直岐と王仁を師に典籍を学び、「長幼の序」を重んじて兄の大鷦鷯尊に皇位を譲って自殺したと『日本書記』にはある。

 記紀の編者たちは天皇家の万世一系を目論む都合上、皇統が途切れなく続いたように装うが、私はヤマトの大王は時の豪族たちの総意の上に推戴されていたと思う。
 恐らく応神から仁徳に至る時代に、大鷦鷯尊(難波)、菟道稚郎子皇子(南山城)、大山守皇子(奈良県北部)と鼎立していたのではないだろうか。最終的に大鷦鷯尊が競争に勝って河内王朝を開いたのであろう。
 問題になるのは敗れた大山守皇子と菟道稚郎子皇子である。
 菟道稚郎子皇子の母・宮主宅媛は和弭日触使主女とされるので、菟道稚郎子皇子は和弭氏を代表する。
大山守皇子は土形君・榛原君の祖とされる。大山守は山部とか山守部を率いて山川林野を掌ることをしていたようだ。山の産物である木の実や植物繊維の加工や薬草の入手などその仕事は多岐にわたっていたようだ。その仕事の中には山から平地に出る境となる谷沿いの土地での水場の管理もあったようで、土木工事を伴う河川の整備も仕事の一部であった。

 私はこの大山守皇子(仁徳天皇の異母兄弟)と沙沙貴山君になんらかの繋がりがあるのではないかと考えるが根拠は無い。共通点は「山」だけである。

 仁徳天皇は『古事記』では大雀命、『日本書記』では大鷦鷯尊といわれ、いずれも鳥の名が付けられている。
 『古事記』には次のような歌が載る。
 吉野の国主(国樔・くず)たちが大雀命の佩く刀を見て歌った歌でその一節に、
「 品陀(ほんだ)の日の御子 大雀 大雀 佩かせる大刀……」とある。
 どうやら大刀に名前の由来があるようだ。

 中国の五胡十六国の国の一つに夏(か)という国があり、自らは大夏ともとなえた。その王に赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)がいた。勃勃は百錬の剛刀を造らせ、その環頭の部分を「龍雀大環」にしていて、その環頭大刀を大夏龍雀と呼んでいた。勃勃が5世紀前半(425年没)に活躍していた頃、日本列島でも環頭大刀が支配者の間で流行しはじめた。
 これらの事を勘案すると、雀か鳳を図文にした環頭大刀が大王の名になったとみられる。
 
 仁徳天皇の妃で重要な人は、磐之媛命(葛城襲津彦の女)と日向髪長媛(諸県君牛諸井の女)であろう。
 仁徳天皇は皇后・磐之媛命との間に大兄去来穂別尊(履中天皇)、住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)、酒人王(岡崎市坂戸の酒人神社の祭神)をもうけている。また、日向髪長媛との間に大草香皇子、草香幡梭姫皇女(雄略天皇の皇后)をもうけている。

 私は仁徳天皇の子に酒人王がいることに注目する。
 仁徳紀には次のような記述がある。
 百済の王族の酒君に無礼があったので、百済王が鉄の鎖でしばって葛城襲津彦に托して送ってきた。その酒君が逃げて匿われたのが石川の錦織首許呂斯(ころし)の家だった。
 酒君は、「天皇は既に私の罪を赦している。だから、あなたに頼って活きたいのです。」と言った。
確かに仁徳天皇は酒君を赦したが、その陰には許呂斯の力があったのだろう。その後、仁徳天皇は酒君の知識を活用することもあった。
 依網屯倉の阿弭古(あびこ)が珍しい鳥を捕った。「自分はいつも網(霞網)を張って鳥を捕っていますが、この鳥は初めてです。だから献上します」と言った。依網池の近くには我孫子(あびこ)の地名が残っている。
 仁徳天皇がこの鳥を酒君に見せると、「この鳥は百済にたくさんいます。訓練すると人の言うことをきき、素早く飛んでいろんな鳥を捕ります。百済では倶知(くち)と言います。」と言った。倶知は鷹のことであった。そこで酒君にこの鳥を飼わせたら、革紐を足に、小鈴を尾につけて、腕にすえて天皇に献上した。天皇が百舌鳥野(もずの)で狩りをすると、この鷹は数十の雉を捕ったという。

 果たして酒人王と酒君とに何らかの繋がりはないのであろうか。

 酒君を匿った石川の錦織首許呂斯(にしごりのおびところし)とはどんな人物であろう。
 石川は南河内を流れる川である。蘇我氏は後に石川氏と名を変えるが、この川と関係があるらしい。その石川の流域に錦織氏は住んでいた。この氏は秦氏と同様に政権の中枢にあまり参加しなかったが、大勢力であったようだ。
 律令体制での河内国の郡の一つが錦部(にしごり)郡である。錦部は錦織と同じと考えてよい。葛城のように地名が氏の名になることはよくあるが、氏の名が郡名になることは珍しいという。
 錦織は、『新撰姓氏録』では百済の近古太王(近尚古王か)の子孫といい、平安京に居住する三吉(善)宿禰も同祖としている。百済系の渡来人であることは確かであろう。
 『住吉神社神代記』には、神社の山を預かる者として石川錦織首許呂斯の名が見え、許呂斯が管理する兄山・天野・横山・錦織などの山名を挙げている。これらの山の分布からみると、許呂斯の力は錦織郡だけでなく石川郡にも及んでいたと考えられる。 仁徳天皇の子に住吉仲皇子がいるのも気になる。
 錦織氏の末裔は、富田林市新堂に四天王寺と同じくらい創建の早い新堂廃寺(烏含寺?)を建立している。

 沙沙貴神社の祭神の一柱・仁徳天皇に関連して、大山守、酒人王、酒君、錦織氏と話を進めてきたが、河内と近江は関連が深そうだ。

 天皇家が万世一系でないことは、記紀からでも推測できる。漢風諡号では初代天皇を神武天皇とした。初代以外で「神」が付くのは10代崇神天皇と15代応神天皇だけである。そのことからも、王朝の替わり目を、崇神、応神、継体とする説がある。
 沙沙貴神社の祭神との関係では、大彦命が崇神天皇紀に四道将軍の一人として活躍する。
 崇神 - 垂仁 - 景行 と続くが、景行天皇は7年も大和を空けて九州遠征に出ている。その時の大和の政治は誰がやっていたのであろう。そして『日本書紀』によれば、景行天皇は死の2年前に近江国に行って、そこに住んでしまった。志賀の高穴穂宮である。この時、沙沙貴神社も社殿が大きくなったともいう。景行天皇は大和ではなく高穴穂宮で亡くなったと『日本書紀』は伝える。

 景行天皇は日本武尊の父である。そして日本武尊の子が仲哀天皇である。この仲哀天皇は即位後は大和にいたことはなく死をむかえる。『古事記』によると、この天皇は「穴門の豊浦宮、筑紫の訶志比宮(香椎宮)に坐して、天の下治らしめしき」とある。このところえぬ流浪の大王を、ヤマト政権(朝廷)の大王と云えるのであろうか。

 仲哀天皇の皇后が神功皇后である。神功皇后は仲哀天皇の九州遠征のとき、天皇とは別行動で敦賀(角鹿)の笥飯宮(けひのみや)から出航している。ここには笥飯大神を祀る気比神宮がある。このことから考えると神功皇后は日本海勢力を代表する女王だった可能性がある。

 三韓征伐が終わり、神功皇后は亡き仲哀天皇の替わりに応神天皇を伴って大和に凱旋するはずであったが、大和入りには麛坂皇子、忍熊皇子の抵抗があった。大和には別の政権があったということだ。
 応神天皇は誉田天皇(ほむたのすめらみこと・ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称され、胎児の時から皇位を約束されていた天皇だが、その産み月より考えて仲哀天皇の子ではないであろう。

 建内宿禰が禊ぎのために神功皇后の御子(のちの応神天皇)を連れて近江・若狭・高志などを経巡って帰還した際、神功皇后は酒を醸造し、御子に献上した。『古事記』には、その時に神宮皇后が詠んだ歌と建内宿禰が御子に代って返した歌と共に、酒楽(さかくら)の歌と名付けられて載っている。『日本書紀』もほぼ同内容の歌を伝える。
 その歌は次のような歌だ。
『 この御酒(みき)は 我わが御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世にいます 石立たす 少名御神(すくなみかみ)の 神祷ぎ(かむほぎ) 寿(ほ)ぎ狂ほし 豊寿ぎ(とよほぎ) 寿ぎ廻し(もとほし) 献り来し(まつりこし) 御酒ぞ 乾(あ)さずをせ ささ 』
 意訳すると
「 このお酒は、私のお酒ではないじゃないのよ。お酒を管理されている、常世にいらっしゃる、岩のようにどっしりとした、少名彦名神(すくなびこなのかみ)が、お祝いして下さって、めちゃくちゃお祝いして下さって、たっぷりお祝いして下さって、お祝いし尽くして下さって、献上してきたお酒なのよ。盃を乾かさずに召し上がって下さいな、さあさあ。 」となる。

 ここに沙沙貴神社の主祭神である少彦名命が出てくる。こうして見てくると少彦名命は天日矛と一脈通じる。和魂の神格を持った神が少彦名命で、荒魂の神格を持ったのが天日矛のように感じる。
 神功皇后の父は気長宿禰王(開化天皇の曾孫)、母は葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)だが、葛城高額媛は天日矛の末裔だとされる。

 因みに和風諡号では景行天皇は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)、仲哀天皇は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、神功皇后は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)で「たらし」が共通してつかわれている。

 少彦名命はお酒をつくる醸造のことも教えたとされる。酒のことを「ささ」ともいう。
近江国蒲生郡(蒲生野)の一帯を古くは「鷦鷯郷」(ササキノゴウ)・「篠笥庄」(ササケノショウ)・「沙沙貴郷」(ササキノゴウ)・「佐佐木庄」(ササキノショウ)・などと称した。この中の「篠笥庄」(ササケノショウ)は酒との関連を匂わす。

 琵琶湖の西岸にある高島市今津町には酒波(さなみ)という地名があり、酒波寺や日置神社がある。さざ波のことを「細波」と書くが、細波は「さなみ」とも読む。琵琶湖は湖なので大波は立たない。酒波は、後世近江の国の一名とされ、和歌に詠まれた楽浪(佐々名実)という言葉とも関連するようだ。酒波は「さざ波」から来ているのだろう。しかし、そこに酒波の字を充てるところに深層に少彦名命との関係が隠れているのかもしれない。

 酒という言葉は、「栄え水」が語源とされる。酒が貴族の中では「ササ」と呼ばれるようになったのは、酒と笹の関係からだとも言われる。神祀りの際には笹を供えたり側に立てたりするが、この笹を供えたり立てたりするときにはお神酒をあげる。そのためお神酒の酒と笹が結びついて、酒のことを「ササ」というのだとする説もある。今でも神社に酒樽を奉納することは一般的だ。
 酒とササキを強引に結びつけるのは、やはりこじつけであるかもしれない。だが、先輩の佐々木さんを見る限りにおいて、佐々木はやはり酒気(ササキ)であったことを思い出す。


 沙沙貴神社の祭神の一柱である仁徳天皇の後は、履中天皇、反正天皇、允恭天皇と仁徳天皇の子が3代続く。允恭天皇の後は、安康天皇、雄略天皇と允恭天皇の子が2代続く。
 しかし、この時代、大草香皇子(仁徳の子)や磐坂市辺押磐皇子(履中の子)のように大王扱いされていた皇族がいたようだ。
 『日本書紀』によると、安康天皇は市辺王(磐坂市辺押磐皇子)に国の後事を託そうとしていた。
 市辺王は雄略天皇に狩りに誘われ殺された。雄略は市辺王を狩りに誘うときに、次のような口上をもたせた使者を送った。
「 近江の狭々城(ささき)の山君韓帒(からぶくろ)が、『近江の蚊屋野に猪や鹿がいっぱいいて、角や脚が林の枝や木の株のようです』と言ってきています。ぜひ一緒に狩りましょう。 」
 市辺王は疑わずに狩りに来て、雄略に射殺された。狭々城山君とは沙沙貴山君のことである。市辺王の子である弘計王(をけおう)と億計王(おけおう)は雄略から逃れるため馬飼い牛飼いに身を落として隠れた。弘計王と億計王は後に見出されて顕宗天皇、仁賢天皇として即位した。顕宗天皇、仁賢天皇の即位の陰には山部、山守の支援があったという。馬飼い牛飼いも山部、山守の職種の一つであった。
 恐らく、顕宗天皇、仁賢天皇が即位できたのは父である市辺王が天皇として即位していたからであろう。
 即位した顕宗天皇は父の遺骨を探し出して、蚊屋野の東の山に御陵を造って、事件に関与した山君の韓帒の子らに管理させた。その後、市辺王の遺骨は改葬されたようだ。

 古墳時代には沙沙貴山君(狭狭城山之公)は、大王家の御陵を守護する役目を司った部で陵戸(みささぎのへ)という古代の職業部の1つだったともいう。この説だと陵戸(みささぎのへ)から「ササキ」の名が出たとも考えられる。市辺王の御陵を管理したことも理解できる。

 市辺王の墓を近江の中に求める動きは江戸時代から盛んであったという。東近江市には市辺町があり、近江鉄道八日市線には市辺駅もある。
 名神高速道路の工事で一部調査された東近江市木村町にあったケンサイ塚古墳は市辺王の墓の候補の一つであった。この調査で、直径約80m、墳高約10mの円墳(後の調査で方墳である可能性が高くなった)であることが分かり、墳頂部から家形・円筒の埴輪、墳丘部の約2m下層から剣・鉄鏃・やりがんな・木製櫛なども確認された。遺物から築造時期は五世紀中期と考えられている。
 しかし、埋葬施設(粘土槨)はあるが遺物はなく、ことによると埋葬後しばらくしてどこかへ改葬した可能性があるという。
 木村古墳群の一つ「ケンサイ塚古墳」は、名神高速道路が木村地区内を横断することとなり、その代替地として農地とする土地改良工事が行われたため現存していないが、天乞山古墳(方墳65m)と、久保田山古墳(円墳57m)が「あかね古墳公園」として復元整備されている。
 これらの古墳は西にある雪野山山頂に築かれた雪野山古墳(前期古墳・前方後円墳)とは1.5㎞の距離に位置している。

 『古事記』には「然後持上其御骨」(しかる後、その御骨を持ちて上る)とあり、新王となった顕宗天皇が父の墓を、殺された近江の土地にも陵を造ったが、改めてヤマトの地にも別に陵を築いて改葬したということらしい。子の社会的地位の変化によって、父や母の古墳の模様替えをするという例は他にもある。


 ここまで、沙沙貴神社の祭神のうち、少彦名命・大彦命・仁徳天皇についてとりとめもなく述べてきたが、キーワードは「日本海勢力」である。
 少彦名命は大国主(出雲神)の協力者であった。沙沙貴山君の祖とされる大彦命は四道将軍の1人として北陸に派遣された。仁徳天皇の祖母は神功皇后で敦賀に縁がある。また仁徳天皇の孫の雄略天皇と市辺王は狩りでこの地を訪れて、市辺王は雄略によって射殺された。その事件に狭々城山君の韓帒が関わっていた。沙沙貴神社の岩境の前に祀られていたのは大きな勾玉の石像で、その原点でもある硬玉ヒスイの勾玉は越の姫川産であった。

 琵琶湖から日本海まではわずかな距離である。琵琶湖から瀬田川、宇治川、淀川と下れば大阪湾へ出られる。琵琶湖は日本海と太平洋を繋ぐ中継地点でもある。似たような役目を果たす湖として諏訪湖や猪苗代湖が挙げられ、共に独特な文化風土を持っている。

 『古事記』では大国主命は少彦名命の協力で国づくりをしたとされる。大国主命と少名彦名命は争うこともあったが、概ね協力して国づくりに当たったようだ。
 『古事記』は、三輪山の神の登場について、国づくりの途中で少名彦名が常世国へ行ってしまったので、自分一人で国づくりはできないと愁いていると「海を光(てら)して依り来る神」が、吾をば倭の青垣の東の山の上に拝(いつ)き奉れば国づくりはできると言ったと書かれている。『日本書記』では、この御諸山(三輪山)の山上に祀られているのは大己貴命の幸魂奇魂であるとする。
 少彦名命は大国主命(出雲神)と関係あり、日本海勢力が祀る神であったように思うが、少名彦名が常世国へ行ってしまったあと現れた「海を光(てら)して依り来る神」は、どんな神かよく分からない。私は、この「海」は日本海ではなく瀬戸内海ではないかと推測する。とにかく三輪山の祭祀は古い。それは初めは国津神(出雲神?)だったのだろうが、その上に天津神が乗っかる形になったように感じる。その天津神は九州から上った天孫族が祀る神であった可能性がある。


 沙沙貴神社の祭神のうち少彦名命・大彦命・仁徳天皇の3柱について述べたので、残りの宇多天皇・敦実親王の2柱について述べたいが、これは佐佐木源氏の始祖であるから、佐佐木源氏について記すことになる。

 沙沙貴神社の権殿の祭神については、東の座の乃木希典命 乃木静子命については既に述べた。西の座の、沙沙貴郷 旧蒲生郡 明治・大正・昭和 戦没者参千七百余柱命については忠魂の人々であり、敢えて説明の必要はないであろう。
 問題は当初より祀られていた中央座の4柱(置目姫命・源雅信・源秀義・源氏頼)である。

 置目姫命(おきめひめのみこと)は狭狭城山君の祖 倭帒(やまとふくろ)宿禰の妹とされる。雄略紀に狭狭城山君の韓帒(からぶくろ)が登場したが、狭狭城山君には「○帒」という名が多いようだ。「帒」が通字であったのかもしれない。古代において彦と姫の男女がペアで政や祭祀を司った。恐らく置目姫命は神まつりを司ったのであろう。

 源雅信は敦実親王の子(宇多天皇の孫)で臣籍降下して源氏姓を賜った人である。

 9代佐々木秀義は保元・平治の乱で源義朝軍に属して戦った。平治の乱で源義朝が平清盛に敗れると、秀義は近江を追われ相模国まで逃れ、渋谷重国の庇護を受ける。
 治承4年(1180年)に源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木秀義とその4人の子、定綱、経高、盛綱、高綱はそれに参じて活躍した。
 秀義はこの戦いで戦死したが、長男の定綱は戦功により近江国の惣追捕使(後の近江守護職)に任じられた。
 頼朝挙兵時に定綱、経高、盛綱、高綱は頼朝についたが、佐々木秀義の五男である義清は平氏方についた。義清は後に頼朝に従ったが、初め「源氏仇方」であったため平氏追討以後も任国を拝領しなかったが、永年の功と承久の乱の時に幕府方についたため、初めて出雲、隠岐の両国守護職を賜い、彼国に下向し、分派して出雲に土着したため、この一族を出雲源氏という。

 9代佐々木秀義は源平合戦を経て、武家としての佐佐木源氏の基礎を築いた人物ともいえる。


 承久3年(1221年)に後鳥羽上皇と幕府が争った承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使と山城守に任ぜられていた佐々木広綱(定綱の嫡子・秀義の孫)を始め一門の大半は上皇方へと属した。
 鎌倉に在り執権の北条義時の婿となっていた佐々木信綱(広綱の弟・秀義の孫)は幕府方へ属した。
 幕府方の勝利により乱が治まると、敗れた上皇方の兄の広綱は弟の信綱に斬首された。以後佐々木信綱が総領となり近江の守護職を継いだ。

 佐々木信綱の死後、近江は4人の息子に分けて継がれ、長男・重綱が大原氏を、次男・高信が高島氏を、三男・泰綱が宗家となる六角氏を、四男・氏信が京極氏を名告った。

 傍流の京極氏などが、嫡流の六角氏に勝る有力な家となることがあり、同族の中でもめることもあったが、基本的には嫡流の六角氏が近江守護を世襲した。特に佐々木京極道誉は、足利高氏(後の足利尊氏)の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権における有力者となる。

 高島氏はその支流と合わせて「高島七頭」と呼ばれて湖西地域に勢力を広げ、今も琵琶湖北岸に高島市という地名を残している。高島氏は室町時代には将軍の直属部隊である奉公衆を務めて幕府を支えた。後に三好長慶によって度々京都を追われた足利義輝を保護し、織田信長の越前金ヶ崎から京都への撤退を助けた朽木氏は、高島七頭の一家である。

 宗家の佐々木六角氏は傍流の京極氏や高島氏、延暦寺と領地争いをすることが多く、訴えられて将軍足利義尚・義材の二代に渡って幕府からの討伐を受けることもあったが、それらを耐え抜き、佐々木氏の同族で守護代を務めた伊庭貞隆の二度に渡る反乱にも打ち勝って、守護大名から戦国大名への道を進んだ。
 
 湖東を中心に300年余り続いた六角氏であったが、永禄11年(1568年)、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去ることになった。(観音寺城の戦い)。


 権殿の中央の座の祭神である佐佐木源氏第18代当主・源氏頼についてはよく分からないが、永源寺や慈恩寺などを創建したことで祀られているのであろう。神仏習合時代、寺も神社も一体であった。


 権殿に向かって左後方には境内摂末社が並んでいた。
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 海童神社、影友稲荷神社、加茂神社、愛宕神社、八神社などが鎮座していた。


 「なんじゃもんじゃ」の木があった。
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 現地説明板より
『 沙沙貴の森 なんじゃもんじゃ
 何だこの花?と言うところからでしょうか、「なんじゃもんじゃ」とも呼ばれている「ヒトツバタゴ」なんです。
 成長しますと30mにもなると言うモクセイ科の落葉樹なんですが、日本では対馬と木曽川沿いにしか見られないようです。
 ところでこの花びらなんですが、4枚に見えますが、実は1枚の花びらが裂けたもので、これも珍しい。遠目には粉雪が積もった様にも見える。また不思議な樹木と言えそうです。
 花の見頃は5月中ごろ1週間程度。
 昭和63年5月18日 苗木奉納
 平成3年 晩秋 現在地に植樹  三十四代 眞杜  』
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 沙沙貴神社境内には数本のヒトツバタゴがある。

 沙沙貴神社には「全国佐々木会」の本部もあるという。全国の佐々木さんの氏社的な一面をになっているようだ。

 沙沙貴神社は、奈良・平安時代にかけて孝元天皇の子孫で蒲生・神崎の大領をつとめた隠然たる勢力を持っていた沙沙貴山君という豪族が、その祖神を祀ったものだったのであろう。
 そこへ宇多天皇の皇子敦実親王の子孫、源雅信の孫、成頼が蒲生郡佐々木荘に住みつき佐々木氏を名告り、祖先の宇多天皇や敦実親王を祖神に加えたのであろう。

 日本の律令は中国の律令とは似て非なるもので、親王に領国も臣下も与えられない。奈良時代は女帝が多かったので問題はなかったが、平安時代になって男帝が基本になると、多くの妃を抱えるので親王の数も多くなった。親王の子孫は平氏や源氏の姓を賜り臣籍に降下し官職に就くか、地方に下り有力豪族と婚姻関係を結ぶ以外に生きる道は残されていなかった。敦実親王の子孫は近江に下り近江源氏となったが、その経済的基盤は母方の沙沙貴山君に依存した。つまり、名は貴種である佐々木氏であるが、その実態は地元の沙沙貴山君の一族であった。
 そして、沙沙貴山君も含めて琵琶湖周辺に盤踞した古代豪族の深層には、海人族の安曇族や渡来系の秦氏の存在が色濃く残るように感じる。秦氏は新羅に合併されてしまった加羅諸国系の渡来人であろう。その為、秦氏は新羅系渡来人とも言われる。

 深層の安曇氏や秦氏の存在を示す一つの象徴が、「なんじゃもんじゃ」(ヒトツバタゴ)ではないだろうか。ヒトツバタゴは対馬や木曽川沿いの岐阜県や愛知県に隔離分布する珍しい樹木だという。
 朝鮮半島から日本へ渡るには、対馬を経由する。秦氏も、その後の百済難民も対馬経由で日本へ渡ってきたのは間違いない。そして、対馬は安曇族の重要拠点の一つである。秦氏の日本移住の手助けをしたのは安曇族であろう。

 琵琶湖東岸から関ヶ原(不破関)を通り、美濃国から木曽川を渡れば尾張国(愛知県)である。愛知県津島市には津島神社という対馬と関わりを持つ神社があり、スサノオが祀られている。スサノオは新羅から渡ってきた神ともされる。そして尾張氏も海人族であり、古くから朝廷や日本海勢力と繋がる。


 平安末期、9代佐々木秀義は河内源氏の源為義(頼朝の祖父)の女を娶って、源氏と婚姻関係を結び、源頼朝の挙兵に従って武勲をたてたことが、その後近江に300年君臨する基礎となった。
 前述したように、表参道の鳥居に掲げる「佐佐木大明神」の扁額は、佐々木定綱(秀義の長男)が頼朝から拝領した額のレプリカだという。
 また、楼門に架かる「沙沙貴神社」の額(レプリカ)は、有栖川熾仁親王が書いたものを三井家が献納したものだ。
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 三井家とは三井財閥の一族だ。そして住友財閥を起こした伊庭貞剛も守護代を務めた伊庭貞隆(佐々木氏の支流)の末裔である。更に、鴻池財閥の鴻池家も祖を中山鹿之介で有名な尼子氏支流の山中氏とするので、佐々木氏の傍流である。
 三井財閥、住友財閥、鴻池財閥などが同じ佐々木氏から出ているのだ。三井と住友が合同して三井住友銀行を作ったのも、同じ佐々木一族が取り持つ縁であったということだ。
 これらの財閥も近江商人の延長線上にあることは確かで、この地は、政治的勢力としてではなく貨幣経済活動で日本を裏から牛耳るという特別な価値観を持った人々を輩出した特異な土壌があったことが注目される。その深層には交易の民であった安曇族、加羅(新羅)からの移住者である秦氏の影が見え隠れする。秦氏はその処世術として、あまり政治の表面に出ずに、経済や宗教で政権を動かすという価値観を持った氏族である。


 沙沙貴神社の主祭神は少彦名命であるが、この少彦名命は大国主命に協力して、国づくりを手伝ったとされるが、穀霊神の一面もあるようだ。大国主命は国津神の代表のような神格を持つが、少彦名命もいくつかの神の神格を併せ持っているような不可解な神で、どことなく渡来系の神のようにも感じる。何れにしても、大国主命と少彦名命が協力して作った国は、天孫族に国譲りされるというのが神話の骨格である。

 『古事記』や『日本書記』では中央の朝廷が、自分たちに有利なように創作を含めて「神まつり」を捏造できた。しかし、それを真実のように見せるためにはアリバイ作りが必要である。このアリバイ作りは記紀を書くように簡単な作業ではなかった。社一つ造るにも経済的基礎が必要なのは当然である。
 各地ではその土地の古代豪族がそれぞれの祖神や国津神を祀っていた。中央集権国家(律令国家)に移行する中で、地方豪族も存続のために中央貴族との関係を必要とした。それを利用して何百年もかけて記紀に登場する神々を地方豪族が祀る神社の1柱に加えることで、記紀に登場する有名神の市民権を確保していった。新しく社を造るよりも既成の社に便乗するほうが労力もいらず、しかも結果的に効果的であった。

 沙沙貴神社に限らず、創建の古い神社の祭神の中に祖神にまぎれて記紀に登場する有名神が祀られた。沙沙貴神社では、その神が少名彦名命であったのだろう。ただ、記紀の神話も古代有力豪族の祖神を意識した神を登場させているので、地方豪族たちも自分たちに関係のありそうな神を撰ぶことがあり、沙沙貴神社で撰ばれたのは少名彦名命であった。



 2016年2月15日(月)、テニスから帰って来てから左足首が痛くなった。プレー中に捻挫したわけではないが、左足首が腫れて痛い。湿布して様子を見たが、一向に良くならない。妻によると、お祖父ちゃんも同じような症状になったときがあり、抗生物質の服用で治ったという。じっとしていても疼痛があるので、18日(木)には皮膚科を受診した。
 どうやら傷口からばい菌が入ったようで、紹介状を書いてもらって南共済病院へ行った。すると、7~10日程の入院が必要だと言われた。幸いベットの空きがあったので即日入院した。病名は「蜂窩織炎」で治療は抗生剤の点滴であった。4日間の治療の後、血液検査をした結果、肝機能に低下が見られるので服薬治療に変更された。点滴より服薬の方が肝臓への負担は軽いという。
 服薬治療なら家でもできるので、医師にお願いして18日(木)に退院した。その後、20日(土)から熱と発疹が出た。熱は午後には39度台に上がり、その繰り返しが4日ほど続き、最後には40度の熱が出た。さすがに体が参ってしまうので、24日(水)には服薬を中止した。明らかに薬の副作用による薬疹と熱であり、このような症状は昨年の5月初めの退院後の症状と同じであった。
 25日(木)、通院した。血液検査の結果、足の状態は改善していることが分かり、自覚症状としてもそれを感じる。もうしばらく服用が必要だということで、他の薬を処方してもらった。その薬では熱が出ていない。
 発症してから杖をついて歩くようになったが、治療が始まってから左膝が痛くなった。今、気になっているのは左足首よりも左膝の痛みと、ベッドに寝てばかりの生活だったので腰が痛いことである。

 仕事をしているときの習慣で、年ではなくて年度(3月~4月)のサイクルが身に染みついている。平成27年度は、最悪の年になってしまった。4月末に入院してカテーテルでステント3本に入れる手術を受け、退院後に薬の副作用に悩まされた。手術後は極端な乾燥肌になってしまい、冬が思いやられたが、案の定、冬になると体が痒くなり、皮膚トラブルに悩まされた。「蜂窩織炎」も、かき傷からばい菌が入ったようだ。入院で始まった27年度は、入院で終わろうとしている。今は、3月中に普通の生活に戻れ、4月には新たな気持ちで28年度を迎えられることを願っている。

 沙沙貴神社のブログを書きかけで入院していまい、退院後もブログを書く余裕がなかった。入院は4人部屋で、その中に佐々木さんがいた。私より早く退院していったが、この佐々木さんは明らかに人生の終末期に差し掛かっている人であった。私を含め相部屋の4人には面会者が次々訪れたが、その話を聞いているとそれぞれの人間模様が感じられた。一つの命に一つの物語がある。
 入院中は読書して過ごすことが多かったが、消灯が10時なので夜は長い。つい余計なことを考えてしまう。この病室の人は、みんな治療が終われば退院できそうな人ばかりだが、他の病棟では「余命宣告」を受けて入院している人もいるかも知れない。あと2年などと余命宣告をされたとすれば辛いだろうが、分かっていれば「終活」ができる。テニス仲間のHさんのように、死が突然やって来ることの方が怖いようにも思う。

「余命」は、はっきり分からないが確実にある。私の場合でも余命は20年を切っていることだろう。私は今、「脳の余命」を考えている。命が終わらなくても痴呆症になってしまったら、ある意味そこで私の人生は終わるのかもしれない。近い将来、高齢者の5人に1人が痴呆症になると言われる。
 「揺り籠から墓場まで」というような社会保障制度がない日本において、出生も死も家族や個人のパーソナルな問題とされる。家族制度が崩壊し、また、家族を持たない人が増加する社会において、死は既に個人的な問題ではなく社会的な問題なのであろう。「健康で文化的な生活」同様、「健康?で文化的な死」について考える必要がある。
 世間では「ピンコロ地蔵」がもてはやされ、参拝の高齢者があとを絶たないという。庶民の願いはピンピン生きて、コロッと死ぬことだという。

 3月に入り、「蜂窩織炎」の治療も終盤を迎え、左膝の状態も少し良くなったのでパソコンに向かおうとした矢先に、一枚の葉書が届いた。
 昨年、母が亡くなったので喪中の葉書を出して、新年の挨拶を失礼したのだが、リストから漏れた二人から年賀状が届いた。その二人には少し遅くなったが2月になって寒中見舞いの葉書を出した。
 その一人から返信が来た。彼は少し知的障害があったが、お母様が丁寧な方で、母親が宛先を書いた年賀状に彼も言葉を添えて送ってくれた。
 そのお母様からの葉書であった。彼が1月25日に心不全で急逝したと書いてあった。葉書の文面は裏面だけで留まらず、宛名の下のスペースまで溢れ、母親の思いが伝わってきて胸がつまった。彼の旅は40歳手前で終わった。
 葉書の最後は、「季節の変わり目、くれぐれもご自愛くださいませ。ありがとうございました。」で終わっていた。

 3月には内輪の息子の結婚式と甥の結婚式で2度長野に帰ることになる。彼らにはやがて新しい家族ができて、新しい人生が始まるのであろう。人の旅は「生」で始まり「死」で終わる。そして、生まれるのも死ぬのも一人である。しかし、迎えてくれる人もいるし、送ってくれる人もいる。それぞれの人生に良き出逢いがあることを願うばかりだ。

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