旅 518 桑実寺

2015年 8月22日
桑実寺
 観音正寺の後、桑実寺へ回った。桑実寺の登り口近くには瓢箪山古墳があるので、先ずは古墳へ行ってみた。

 安土瓢箪山古墳(あづちひょうたんやまこふん)は、滋賀県近江八幡市安土町桑実寺にある前方後円墳で、国の史跡に指定されている。(指定名称は「瓢箪山古墳」)
 JR東海道本線安土駅から徒歩約25分の場所にある。
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 前方後円墳だと分かっているので、それらしく見えるが、そうでなければ単なる丘である。保存されているのだが、特に整備がされている訳でもなく、説明板で古墳の状況を知ることしかできない。

 1935年(昭和10年)、地元の人がこの丘に壁土用の土取りにやってきて、取り去った土の下から偶然にも1個の箱式石棺を発見した。地元の人もここが古墳だとは知らなかったということだ。
 1935年(昭和10年)と翌1936年(昭和11年)に発掘調査が行われた。前後2回の調査(日本古文化研究所によるものと滋賀県によるもの)を指導したのは当時京都帝国大学考古学教室の助教授であった梅原末治である。その為か出土した遺物は京都大学総合博物館に保管されている。
 近くの滋賀県立安土城考古博物館に実物大に復元された中央石室の模型や出土した鏡などの遺物の複製品が展示されている。1957年(昭和32)に国の史跡に指定された。

 現地には古い説明板と比較的新しい説明板があった。
 現地説明板より
『 瓢箪山古墳
 全長162m、後円部径90m、前方部巾70mの前方後円墳で尾根の先端を利用した古い形式のものである。
 後円部には、主軸に直交して三基の竪穴式石室がつくられ、そこには鏡、石製品、筒形銅器、銅鏃、玉類などのほかに多くの鉄器類が副葬されていたし、また前方部の二基の箱式棺からも石釧、玉類が発見されている。
 昭和10、11年に発掘調査され、昭和32年に国の史跡に指定された。 』

 “後円部経90m”と書いてあったが、“後円部径90m”として載せる。

 現地説明板より
『 瓢箪山古墳(国指定遺跡)
 この古墳は、滋賀県で最大級の規模を誇り、古墳時代前期(4世紀)に造られた前方後円墳です。
 当時蒲生郡、神埼郡で大きな力を持っていた古代の豪族「狭狭城山の君」に関連すると考えられています。
 昭和10年、石棺が偶然発見されたことを契機に、京都大学により発掘調査が実施されました。その結果、前方部に二基の石棺、後円部に三基の竪穴式石室を持つことが明らかになりました。
 後円部中央の石室からは割竹形木棺が出土し、それとともに、銅鏡二面・鍬型石・石釧・車輪などの装飾品や、管玉、剣、刀、銅、鉄の鏃、短甲、斧、鎌等の、種類も多彩で量も豊富な遺物が出土しました。
 この古墳から出土した遺物は、現在「京都大学総合博物館」で保管されており、実物大に復元された後円部中央の石室と遺物の模型が「滋賀県立安土城考古博物館」にで展示されています。
 近江八幡市  』

“「滋賀県立安土城考古博物館」にで展示されています。”とあったが、“にで”は間違いであろう。“に”か“で”か“にて”に直した方がいいと考える。


 全国に「瓢箪山古墳」という名の古墳がいくつもあるので、この古墳は地名をつけて安土瓢箪山古墳と呼ばれる。 滋賀県内では最古・最大規模の古墳で、4世紀中頃の築造と推定される。
 現在の蒲生郡や神埼郡(現東近江市)は、古代には豪族・狭狭城山の君(ささきやまのきみ)が盤踞した土地であるため、瓢箪山古墳の被葬者も狭々城山の君の祖先につながる首長と想定されてきた。
 ところが、平成元年(1989)に未盗掘の状態で雪野山古墳((東近江市・旧八日市市)や中沢・斗西(とのにし)遺跡(蒲生郡竜王町)で前方後円墳が発見されたことで、それら古墳の被葬者こそが狭狭城山君一族であると見て、瓢箪山古墳の被葬者は中央から派遣されて在地の豪族を従えた人物とする説が挙げられるようになった。

 雪野山古墳は琵琶湖の南東部に広がる湖東平野の独立丘陵である雪野山(標高308.82メートル、東近江市と蒲生郡竜王町の境)の頂に築造されていて、古墳と山麓との標高差は約200メートルである。古墳時代前期前半の古墳とされ、瓢箪山古墳よりも少し古いと推定されている。3面の三角縁神獣鏡が出土していることからヤマト政権との関係が考えられる。
 雪野山は観音正寺からよく見えた。


 瓢箪山古墳周辺には宮津や江頭の地名が残っていることから推察しても、この地は古代には海上交通の要衝だったと考えられる。ヤマト政権がこの地に屯倉を置き、湖東平野の生産物を畿内に送る基地としていたことも想定でき、瓢箪山古墳の被葬者は畿内勢力を背景に在地豪族を従えた人物であるという説も頷ける。


 瓢箪山古墳に寄った後に、桑実寺を訪れた。山麓に車を置いて、桑実寺への石段を登った。この道は観音寺城跡や観音正寺に登る道の一つでもある。
 桑実寺までは約400m、六百数十段の石段を登ることになり、かなりきつかった。
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 桑実寺(くわのみでら)は滋賀県近江八幡市安土町桑実寺にある天台宗の寺院で、別名桑峰薬師ともいう。山号は繖山(きぬがさやま)、本尊は薬師如来である。

 石段の途中に山門があった。
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 桑実寺に着くと受付があったので、拝観料を払ってしおりをもらって境内へ入った。受付には若いお坊さんとその妻と子と思われる幼児の計三人がいた。観音寺城跡から下ってきても山麓から上っていっても、境内に入るためには拝観料が必要で、その徴収のために受付に誰かが詰めている必要があり、今日は親子三人でいたのだろう。今日は土曜日だが、私がいた間には2~3のグループが訪れただけで、山上の観音正寺の賑わいとはかなりちがう。

現地説明板より
『 桑実寺
 桑実寺は藤原鎌足の長男定恵の開基を伝える名刹です。室町時代末ここに将軍足利義晴がしばらく滞在したことがあります。いまに伝わる天文元年の奥書がある「紙本着色桑実寺縁起」は、絵は土佐光茂、詞は後奈良院らの筆による名品ですが、これは義晴が寄進したものです。また、桁行五間、梁間六間一重、入母屋造桧皮葺の本堂は、室町時代初期の建築。ともに重要文化財に指定されています。 』

 しおりには次のようにあった。
『 繖山 桑實寺の歴史
 桑實寺は天智天皇の勅願寺院として、白鳳6年に創建されました。縁起は、湖国に疫病が流行し天皇の第四皇女阿閇姫も病にかかり病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢をみた。夢の話を聞いた天皇が定恵和尚に法会を営せると湖中より生身の薬師如来が現れ大光明がさした。
 この光明に当たった人々の病も治り姫の病も治った。この薬師如来を本尊としたのが桑實寺で、定恵和尚により白鳳6年11月8日に開山した。
 桑實寺の寺名は、定恵和尚が中国より桑の木を持帰り此地において日本で最初に養蚕技術を広められた為です。山号の繖山も、蚕が口から糸を散らしマユを懸けることにちなんだものです。
 往時には二院十六坊の僧坊があり、足利第十二代将軍義晴が三年間仮幕府を開いています。
 桑實寺は創建の昔より薬師如来信仰の祈願道場として栄えた寺で、戦国時代にも全く戦火には関係なく、現在の桑實寺本堂は南北朝時代に建立されたままの姿です。 』 

 藤原鎌足の長男定恵が、白鳳6年(677)に開山したというが、正史では定恵は 、665年(天暦年)12月に亡くなったとされる。高句麗の僧道賢が誄(しのびごと)をつくっている。したがって、白鳳6年(677)に桑実寺の開山になることはできない。
 しかし、桑実寺では「開山定恵和尚像」まであり、開山が定恵であることを強くアピールしている。


 定恵(643年~666年)は、飛鳥時代の学僧で、父は中臣鎌足、母は車持国子の娘・与志古娘とされる。出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」で、弟に藤原不比等がいる。
 653年(白雉4年)5月遣唐使とともに唐へ渡り、665年(天暦年)9月、朝鮮半島の百済を経て日本に帰国したが、同年12月大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなったとされる。

 また、天智天皇は672年に亡くなっているので、白鳳6年(677)に創建された桑実寺は天智天皇の勅願寺院とはなりえない。

 しおりに“桑實寺の寺名は、定恵和尚が中国より桑の木を持帰り此地において日本で最初に養蚕技術を広められた為です。”とあるが、養蚕はそれ以前から始められていたことは確かである。秦氏なども養蚕の担い手であった。

 奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある談山神社は、神仏分離以前は寺院であり、多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)といった。
 鎌倉時代に成立した妙楽寺の寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(阿武山古墳)から大和に移し、十三重塔を造立したのが発祥であるとする。
 ここでも665年に亡くなったとされる定恵が678年の開山になっている。
 信濃国の東山道沿いの駅寺である大法寺の寺伝でも、大宝年間(701~704)に定恵が開山したとされていた。大法寺には国宝の「見返りの塔」がある。
 果たして定恵は23歳で亡くなっているのであろうか。

 私は、定恵と同じ643年(皇極天皇2年)生まれの義淵(ぎえん・ぎいん)に注目している。
 義淵(643~728)は奈良時代の法相宗の僧である。『続日本紀』によると俗姓は市往氏であるが、『扶桑略記』では大和国高市郡の出身で俗姓を阿刀氏とする。
 鈴木真年『百家系図』巻46 岡連、『百家系図稿』巻5 市往公 岡連 では、市往氏は百済系渡来氏族で鬼室福信の弟福応を祖とし、帰化後大倭国高市郡市往に居住したことから、その地名を賜姓されたとされる。
 また、義淵の父を市往福応、母を阿刀忍古の娘炊売とする(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年 による)。
 義淵は父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇により皇子とともに岡本宮で養育されたという。この皇子とは草壁皇子のことらしい。
 出家して元興寺に入り唯識・法相を修め、龍蓋寺(=岡寺)などの5ヶ龍寺を創建した。龍蓋寺(=岡寺)は、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。
 義淵は文武天皇3年(699年)、学行褒賞で稲1万束を賜り、大宝3年(703年)に僧正に任じられた。元正・聖武両天皇の下で内裏に供奉した。『続日本紀』には、先代からの行いを称され727年(神亀4年)に岡連の姓を賜り兄弟に仕えることを許された、とある。
 『三国仏法伝通縁起』によれば、弟子に玄昉・行基・隆尊・良弁などがおり、道慈・道鏡なども義淵の門下であったという。弟子の名を見れば分かるが、奈良時代の仏教界のフィクサーであったことは間違いない。


 しおりには、“縁起は、湖国に疫病が流行し天皇の第四皇女阿閇姫も病にかかり病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢をみた。夢の話を聞いた天皇が定恵和尚に法会を営せると湖中より生身の薬師如来が現れ大光明がさした。この光明に当たった人々の病も治り姫の病も治った。この薬師如来を本尊としたのが桑實寺で、定恵和尚により白鳳6年11月8日に開山した。”とあり、天智天皇の第四皇女阿閇姫のことが語られる。
 この阿閇姫とは後の元明天皇のことで、草壁皇子の妃となり氷高皇女(元正天皇)や珂瑠皇子(文武天皇)を生んだ。元明天皇の姉には持統天皇(天武天皇の皇后)がいる。

 慶雲4年(707)には元明天皇の行幸があったという。
 天平感宝元年(749)、聖武天皇より豊浦荘を勅旨施入。豊浦庄という荘園名は、元明天皇(豊国成姫)が桑実寺に行幸された時、船で着かれた浦から取って豊浦庄と名づけられたという。この荘園は、のち色々の曲折を経るが、信長の近江平定まで存続する。今も豊浦の地名は残っている。

 天智 → 天武 → 持統(女帝)→ 文武 → 元明(女帝)→元正(女帝)→ 聖武 →孝謙(女帝)と続く天皇家と、藤原氏(鎌足・定恵・不比等・光明子など)、百済系帰化人(鬼室福信・鬼室福応・ 鬼室集斯・ 義淵など)の繋がりは深い。この桑実寺の縁起もこのような時代背景を反映したものであろう。


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 この重要文化財に指定されている本堂は室町時代初期のものだ。多くの天台宗の寺院が信長の兵火にかかっているが、この寺だけは兵火を免れただけでなく、信長の庇護も受けている。
 外陣は正面五間を蔀戸(しとみ)とし、側面は二間とする。内陣は背面中央間以外壁である。

 本堂の中は、特に撮影禁止の貼り紙はなかった。フラッシュを使わずに撮影した。
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 中央の立派な厨子の中に本尊の薬師如来坐像が安置されている。奈良時代の作で、秘仏で30年に一回開帳される。
 本尊の薬師如来は、「かま薬師」の俗称があり、瘡(くさ)やできものに霊験があると伝わる。桑実寺は繖山の古代巨岩信仰と薬師如来の信仰とが結びついて、衆生の病苦を治す霊場と考えられていた。天武や持統は現世利益のある薬師如来を信仰し、薬師寺などを建てている。
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 厨子の前に座す金色の薬師如来は、住職が自らノミをふるって造り、金箔も自ら塗ったという。
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 仏像の保存状態がいいのか、補修したのか、不動明王立像や十二神将には色彩が残り逸品に見えた。仏像の前に展示されている絵は、足利義晴が寄進した「紙本着色桑実寺縁起」(重文)のコピーである。
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 桑実寺にはかつて三重塔があったという。
文明15年(1483)佐々木氏によって三重塔が建立され、塔内には大日・釈迦・薬師如来と普賢・文殊菩薩を安置したと伝える。
 この塔は寛政3年(1792)暴風雨によって大破し、明治13年(1880)解体したと云う。
三重塔本尊の大日如来は本堂に遷座し、安置されている。
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 本堂の向かって左には鐘楼があり梵鐘が下げられていた。
寛永21年(1644)2月鐘楼が建立され、鐘工金屋新左衛門尉製作の重量壱百参拾貫の梵鐘が奉納された。朝夕の刻を知らせる鐘の音が繖山に響いたという。
 その鐘は昭和17年太平洋戦争のため供出された。現在の鐘は昭和26年に新調されたものだ。敗戦から6年で鐘が新調できたということは、天台宗の底力だけでなく日本の復興の早さとも関係した出来事であろう。
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 足利義晴は、大永元年(1521)第12代将軍になるが、京都での争乱を鎮定できず各地を転々とする。官位は征夷大将軍権大納言で、近江の佐々木定頼をたよりに享禄4年(1531)8月桑実寺に移住する。
以来3年間、当寺正覚院を仮幕府とした。天文3年(1534)6月義晴は、近衛尚道の女を迎え台所とした。婚儀は6月8日から10日まで三日間桑実寺で挙げその費用は弐拾貫文と記録されている。

 信長は、永禄11年(1568)近江侵攻を始める。9月12日、鎌倉以来14代400年間続いた六角佐々木氏が壊滅する。信長は観音寺城をそのまま残している。
 9月18日、信長は桑実寺に美濃にいた足利義昭を迎えた。義昭は正覚院を陣所とした。12代、14代と足利将軍が桑実寺正覚院に住したことになる。

 佐々木氏の衰退と共に桑実寺は一時期荒廃していたが、1576年安土に居をかまえた織田信長によって再興された。信長は桑実寺に約60町の境内地及び四百十五石の水田を与えると共に、荒廃していた堂宇修理再建をしている
 現在の本堂(重文)は安土城と同じく1576年(天正4年)の建立で、寛政4年(1793)や昭和60年(1985)に修理されている。

 足利将軍の陣所となった正覚院は桑実寺の支院であったが、別格として力を振い、山内寺院と様々な確執があった。そのため正覚院は浄土宗に転宗し、後に転出する。

 信長は近江平定後、各寺の寺領を没収するが、桑実寺に対しては寺領の施入・堂宇の修理再建をした。観音寺城も元のまま残した。観音寺城が崩壊したのは天正10年(1582)で、安土城とともに滅亡した。
 信長は安土城を造ったこともあり、この地を都にするつもりであったのかもしれない。

 桑実寺といえば、天正9年(1581)信長が竹生島参詣中に、安土城を留守にして桑実寺に詣でていた女房衆が処罰された(信長公記)ことは有名である。
 『信長公記』によると、天正9年4月10日に信長は小姓衆5~6人を従えて竹生島参詣した。長浜の羽柴秀吉の城まで馬に乗り、そこから竹生島まで湖上5里を船で行った。安土から往復約100kmであり、遠路であるので常識として長浜で1泊すると思われていたのにその日のうちに安土城に帰還した。
 その時、女房達のなかで、桑実寺に参詣に出かけたものがおり、信長は遊び怠けたとしてその女房を出頭させるように命じた。しかし、それをかばった寺の長老とその女房達を切り捨ててしまったとあるがフィクションとも云われている。

 『信長公記』には、次のようにある。
「 四月十日、信長御小姓衆五・六人召列られ、竹生嶋御参詣。長浜羽柴筑前所迄御馬にめされ、是より海上五里、御舟にて御社参。海陸ともに片道十五里の所を、日の内に、上下三十里の道御帰りなされ、誠に希代の題目なり。併、御機力も余人にかはり、御達者に御座候の処、諸人感じ奉り候なり。遠路に候へば今日は長浜にご逗留候はんと、何れも存知の処、御帰り候てご覧候へば、御女房たち、或は二の丸まで出でられ、或は桑実寺薬師参りもあり。御城内は行きあたり、モダヘ焦、仰天限りなし。則、くゝり縛り、桑実寺へ女房共出だし候へと御使を遣はされ候へば、御慈悲に御助け候へと長老詫言申上げられ候へば、其長老をも同時に御成敗候なり。 」

 問題は最後の“則、くゝり縛り、桑実寺へ女房共出だし候へと御使を遣はされ候へば、御慈悲に御助け候へと長老詫言申上げられ候へば、其長老をも同時に御成敗候なり。”の部分である。
 “くゝり縛り”とあるので、たるんでいた女房達が罰を受けたのは事実であろうが、桑実寺に詣でていた女房や寛大な処置を求めた長老(寺の僧だと考えられる)が、“御成敗”されたということを、そのまま処刑されたと捉えてよいものか意見が分かれる。
 「成敗」には、“さばくこと・裁断”と“こらしめること・処罰・斬罪に処すること”の2つの意味があるが、最悪の場合が「斬罪に処すること」であるから、信長が安土を地盤として安定政権を築こうとしているいとき、女房達を斬って評判を落とすようなことをしただろうか。信長は地元で人気を得ることや夢や希望を与えることが必要であることを一番知っていた人物であったと考える。信長は短気であったかもしれないが、それ以上に繊細な神経の持ち主であったと思う。

 最後に持統天皇の母は蘇我遠智娘で、元明天皇の母は蘇我姪娘で、共に蘇我氏であることを記しておく。

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