旅 404 湯殿山神社本宮(1)

2014年10月18日
湯殿山神社本宮(1)
 慈恩寺から湯殿山神社本宮へ向かった。途中でガソリンスタンドが開いているか心配だったが、無事給油できて一安心である。国道112号線はトンネルなどが穿たれ、道路が整備され走りやすくなっていた。月山花笠ラインと呼んでいるようだ。
 月山第一トンネルを出ると国道112号線から湯殿山へ上る道へ入った。途中から湯殿山道路という有料道路になるが、ゲートが開くのが8時半で、少し早く着きすぎたので待った。私の後から上ってきた人も含め待つ車が4台ほどになった頃、ようやく係の人が乗った車がやって来た。その車は一人を降ろして上っていった。8時15分頃だが、係の人が到着したのでゲートが開くと思い、車の中で待機した。なかなかゲートが開かないので、規則通り8時半まで待たされるのかなと思っていると、5分程前に開いた。400円の通行費を払って湯殿山参籠所まで上がった。この有料道路も11月初旬には閉まるという。東北の冬は早い。
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この大鳥居は平成5年10月にできたそうだ。
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 まだ紅葉には少し早いようだ。

 湯殿山参籠所からはバスが出ているが、歩いても20~30分だというので歩くことにした。すっかり観光地と化した感があり、ほとんど歩かなくても出羽三山の奥の院と言われる湯殿山神社本宮へ行けるということだ。中高年には便利でありがたいが、修験の山、信仰の山としての権威は薄れているようだ。

 本宮に向かって舗装された山道を登っていると、バスに追い抜かれた。こんな空気が澄んだ山の中を、排気ガスを出しながら上っていくバスは相応しくないと思いながら、これも観光という仕事で生きていくためにはやむを得ないことかとも達観してみる。
 写真は帰りの道を下るとき撮ることにして、とにかく本宮まで上ることに専念した。

 バスの終点まで着いた。既にお店が開いていた。お店の人や本宮で仕事をする神職の人が乗ってくる車を駐める駐車場が、木々で隠れた目立たない場所にあったのを目ざとく見つけた。
 その駐車場に警察車両が駐まっていて、レスキューのオレンジ色の服を着た人も見えたので、山岳救助隊のような人が常駐しているのかなと思い、お店の人に訊いてみた。

 すると、一昨日(10月16日)本宮を参拝したお年寄りが行方不明になってしまったのだという。何でも名古屋の80歳になる高校の同級生グループが参拝に来て、一人が行方不明になってしまったらしい。店の人の話によると、80歳になった記念の旅行のようで、11人全員でここまで来たが、「私は何度もお参りしているので、ここで待っている」と言って数人がこのお店のある辺りで待っていて、あとの数人が本宮まで行ったという。参拝が終わった後、行方不明になった人は、御朱印をもらうために一人遅くなったようだ。待っていても戻ってこないので携帯電話をかけたが応答がなく、探したが見つからないので4時50分頃警察に通報したという。店の人によると少し痴呆症ぎみだったようだと言う。
 昨日も捜索したが見つからなかったようだ。今日もこれから捜索するという。私は今朝の気温が6℃だったことを思い出して、ゾッとした。楽しいはずの同級生との旅行が大変なことになってしまった。ここも供養鎮魂の山であるとすれば、この老人の魂は既にあちらの世界へ連れ去られてしまっているのではないかと想像してしまい、気持ちが落ち込んだ。
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現地説明板より
『 湯殿山のご由来
御祭神
大山祇命(おおやまづみのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
 出羽三山とは、月山・羽黒山・湯殿山の総称で推古天皇元年(593)、第32代崇峻天皇の御子である蜂子皇子様の御開山である。皇子は、蘇我氏の難を避け、京都の由良から海路を経て、出羽国庄内浜の由良に入られた。そして三本足の霊烏の導くままに羽黒山に入り難行苦行の末、羽黒山上に羽黒権現の御示現を拝し、次いで、月山、湯殿山を開き、両神を羽黒山に勧請して羽黒三所大権現と称した。
 その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄上人や修験道の祖と言われる役の行者、また真言宗の開祖弘法大師、天台宗の開祖伝教大師とその弟子慈覚大師なども来山して修行をしたとも伝えられている。こうして皇子修行の道は次第に発展して羽黒派修験道となり、全国に名を知られ時代を重ねるにつれ、人々の厚い信仰を集めることとなった。
 此処、湯殿山は、推古13年(605)の御開山とされ、出羽三山の総奥の院として特に厚い信仰を集めてきた。江戸時代までは真言宗として奉仕してきたが、明治維新に際して神仏分離(廃仏毀釈)が発令され、古への神奈備山にかえり神社として奉仕している。
 殊に出羽三山信仰は「三関三渡」や「擬死再生」など、生まれ変わりの信仰が今も尚息づいている。羽黒山で現世利益の御神徳に与り、月山の大神の下で死後の体験をし、慈悲深い湯殿の大神より、新しい生命を賜って、再生すると考えられる。
 特に湯殿山での修行は三世を超えた大日如来を本地仏とする大山祇命・大己貴命・少彦名命の霊験により、神仏と一体になり即身成仏を得ることが出来るとされた。また湯殿山本宮では、御神体を目の当たりに拝し、直に触れてお詣りが出来る御霊験の有り難さより、俳聖松尾芭蕉も「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の句を残された、古来「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められた清浄神秘の霊場なのである。

ご参拝について
・参拝バスを降り、湯殿山神社本宮参道入口より徒歩5分(約100m)
・本宮入口で素足になってお祓いを受けてから御神体にお進みお参り下さい。
御祓料 500円
※本宮内はご由緒により撮影はご遠慮下さい。    』

 この説明板では三山それぞれ役割分担があり、月山は“死の山(擬死体験)”だが、湯殿山は“再生”の山ということになっている。行方不明の老人は再生の神社で死ぬことはないのではという微かな期待が宿ったが、それは見事に裏切られた。

 石段を少し上り50mほど歩き、右下の沢に下りると受付のような場所があった。
 作法通り、素足になってお祓い料(500円)を払った。ひとがた(人の形をした紙)と紙の安ぽいお守りを受け取り、祈祷をうける。ひとがたは頭から足元まで撫でて穢れをうつし、息を3回ふきかけた後、水へと流した。
 郷にいれば郷に従えだからしかたないが、ここの神様は一生懸命生きている人間が穢れていると思っているのか気になる。私は禊ぎ祓いの神道を快く思っていない。本来の日本の八百万の神たちは人間の営みの中から生まれる汚れをいとおしいと思うような神なのではないかと信じている。土や油にまみれて働く汚れた手を尊いと思う神たちだと考える。人間の存在はけして不浄なものではない。

 裸足のままで先へ進むと、御神体と対面となる。裸足なので足の裏が少し冷たい。本宮には社殿がない。湯殿山神社の御神体は、温泉水が湧出する場所にある茶褐色の巨岩で、この巨岩には温泉水の影響により生じた水酸化鉄がウロコ状の塊となって付着している。御神体であるこの巨岩は、「三山奥ノ院」とされ、一番の聖域とされる。
 鏡があったが人工物は相応しくない感じがた。折角、社殿や拝殿という人工物がないのだから鏡もないほうが自然だ。
 向かって左側から茶褐色の巨石の背後に登れる。登る石段にも温泉が流れ、足は冷たくないのだが、何だか滑るような気がして少しこわい。
 巨石の背後を進むと行き止まりになっていた。ここから滝に下りられるようなのだが、今は通行止めになっているようだ。滝も見えなかった。

現地説明板より
『 御滝神社・御澤参拝について
 こちらでの御参拝は、月山からの清流、梵字川の両岸に祀られている常世岐姫神社を始め13柱の神々を拝し、更に直下に轟音を上げて流れ落ちる御滝・御滝神社を参拝する拝所であります。
 古来より湯殿山の御滝には龍神様が棲まうとする信仰もあり、江戸期にはその全盛をみるに至りました。
 また往古より湯殿山御神体を参拝する際には、予め御滝で心身を清めてから御神体を拝するという風習があり、現在でもその戒めを固く守り参詣する信者行者は後を絶ちません。行の御山、生まれ変わりの山と謂われる所以はまさに、此処にあるのであります。 』

 昔はこの滝を不動尊として拝したが、今は瀬織津姫神を拝する。この滝から神橋に至る間の両岸には13の末社が祀られ、この末社を巡拝することを御沢駆けと云う。真夏でも肌に突き刺すような雪解け水に滝の行をする行者が多いという。

 今はバスで本宮入口まで上がれる。私はその車道を歩いてきた。しかし、かつてはこの沢を登ってきたという。沢を登ることを「御沢駆け」といい、仙人沢を沢登りして奥の院に参詣する風習があった。その行程で見ることができる特徴的な岩や洞窟などの自然物には神仏の名前が付けられており、これが御沢仏である。御沢仏それぞれの尊名 ( 神仏の名前 ) は、「御前五身仏」「愛染明王」「胎内権現」「日月燈明仏」などといったもので、かなり特殊なものが多いという。神仏分離後は、全て神名となったという。
 御沢仏は元々信仰された自然物そのものであったが、時代が下るにしたがいそれを偶像化したもの(彫刻・絵画)も制作されるようになり、これらもあわせて御沢仏といわれるようになった。湯殿山やその信仰圏で散見される御沢仏は、湯殿山の大自然そのものを神格化したものであるがゆえに、湯殿山系寺院で最も重視されるという。

 参拝を終えて出てきたところに足湯があったので、靴下をはく前に足湯で休んだ。私は20~30分しか歩いていないので、それ程足は疲れていないが、羽黒山から月山を越えてトレッキングしてきた人たちならば、この足湯は疲れをとるためには最高なのであろう。
 
 靴を履いて、来た道を戻ろうとしたとき、登山者とおぼしき人たちが沢道に入っていくのが見えた。この本宮から月山へは約3時間だと聞いた。
 私の脳裏には老人が間違えて登山道へ入ってしまった姿が浮かんだ。
 道を戻りながら、写真を撮った。
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 熊出没注意の標識が見える。道の上からも御神体の写真が撮られないようにガードしてある。つまり見通しが悪いということだ。もし見通しがよければ、間違えて登山道へ入っていく老人の姿を誰かが見つけたかもしれない。
 登山者が登山道へ入っていく姿を見てから、忘れていた行方不明の老人のことが頭から離れなくなった。柵から藪の中に身を乗り出して、下の写真を一枚撮った。微かに御神体が見えた。
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 この御神体を女陰崇拝の象徴だという人がいるが、想像力が豊でない私にはどこから女陰を連想するのか分からなかった。

 売店まで帰って来て、店の人とまた少し話をした。行方不明の老人の仲間は、彼が少し痴呆症ぎみだったのを知っていて何故最後まで行動を共にしなかったのだろう。確かに片道100m足らずの道のりで迷うような道だとは思わなかったのだろうが……。
 それに「私は何度もお参りしているので、ここで待っている」と言った人は、ここまで来てなぜ一緒に行かなかったのだろう。信心が無いと言えばそれまでだが、私のように一度は見ておこうと考えて参拝した人は、一度見て知っているからもういいやと思ったのだろうか。お祓い料を500円払ってまで参拝する必要性を感じなかったのだろうか。
 私は、お祓い料の500円は高いと思う。よく拝観料をとる神社仏閣があるが、社殿などの建物は維持管理費がかかるので仕方ないと思うことがあるが、ここは自然にできた造形が御神体なので特別維持管理費はいらないと思うのだが……。だが、自然災害で一時、復旧まで参拝ができなかったことがあるというので、いくらかの拝観料はとってもいいとは思うが、500円は高いように感じる。私は自発的なお賽銭で十分賄えると感じる。御神体を金儲けに使ってはいけない。

 帰り道は写真を撮りながら下った。
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 湯殿山参籠所まで下りてきた。
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玉姫稲荷神社があった。
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現地説明板より
『 玉姫稲荷神社の由緒
 玉姫稲荷神社は、此処仙人沢の霊域に於いて、即身成仏の修行に挺身された鉄門海上人が守り神として帰依され、その御守護を得て成仏されたとのいわれにより湯殿大神に願掛けする人は、先ず玉姫稲荷にお参りし、その霊験におすがりし、そのおたすけを頂いて本願を達成するという、習わしがありました。
 初めは、石柱を憑代としておりましたが昭和61年神社の御神木を以て社殿を造営し又、信者の寄進により鳥居も建立され、御社頭一新の整備を見ました。
玉姫の みいづかしこむまめ人が 祈る真心嘉(よみ)し給へと 春岳  』
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 ここは即身仏修行の地だという。鉄門海上人とおぼしきミイラのレプリカが祀ってあったが、有り難みがない。
現地説明板より
『 由来
 湯殿山は出羽三山の奥の院として明治の初めまで神仏習合の霊山として栄え此処、仙人沢は木食行人(一世行人)修行の霊地でありました。
 庄内地方にある即身仏6体
 真如海上人  大日坊  朝日村大網
 鉄門海上人  注連寺  朝日村七五三掛
 本明海上人  本明寺 朝日村東岩本
 鉄龍海上人  南岳寺  鶴岡市
 忠海上人   海向寺  酒田市
 円明海上人  海向寺  酒田市
 は、皆湯殿山仙人沢に於いて五穀を断ち十穀を断って厳しい修行を重ね衆生済度のため挺身された尊い方々であります。
 最近この霊場、湯殿山仙人沢の信仰史蹟を広く顕彰して欲しいという要望がある矢先、映画「月山」に於いてミイラ像を作成した御縁で鶴岡市出身医博秋山太一郎氏より模擬像の奉納がありました。奇特の至りで湯殿信仰を物語る貴重な資料であります。
    湯殿本宮 』

 私は前に村上市の観音寺で仏海上人のでミイラを見たことがある。
( 関連記事 観音寺  旅21 笹川流れ など )
 ミイラを公開している寺もあるのは知っていたが、ミイラそのものには興味がないので見に行くつもりはない。しかし、湯殿山が即身仏と関係があることには興味があるので調べてみた。

 真言宗の修験道者には、弥勒菩薩が五十六億七千万年の後に下界に生まれて聖業を行うという信仰があった。五十六億七千万年後とは天文学的数字で、今の地球の年齢に匹敵する。いや地球の年齢は45億年とも言われるのでそれ以上だ。
 真言宗の修験道者は弥勒菩薩のその聖業に参与するために、自らの身体を留めておく念願がたいへんに強かった。弘法大師空海が眠っているのもその為かもしれない。
 この目的のためには、行者たちは平素の救生済度はもとより、死後はミイラとなって、世人の信仰を集めた。これを即身仏と言うが、要するに即身成仏した行人のことである。
 このための修行は出羽の湯殿山が主体となった。湯殿山を管理する朝日村七五三掛の注連寺、朝日村大網の龍水寺大日坊、西川町保土打の本道寺、西川町大井沢の大日寺を別当四ヶ寺とよんだが、そのいずれかに入門する。もちろん得度したのち、難行苦行を経て一世行人を名乗り、宗祖の空海に因んだ得号の免許をうけねばならない。
 行者は一千日以上にものぼる修業の上、海号を許され、山篭行者とも称された。
 調べてみて初めて私は、即身仏の多くが「海」の付く上人名であることの理由が分かった。
 ここで注目するのは、本道寺と大日寺は慈恩寺宝蔵院末寺であることだ。月山・湯殿山への登り口は7つあるとされ、西の朝日村にある注連寺口や大網口のほうが、南の西川町の本道寺口や大井沢口よりも古いということだ。
 どういうわけか、慈恩寺は天文年間(1532年~1555年)に奥の院としていた葉山との関係を断った。そして、江戸時代に月山・湯殿山の登拝が隆盛を極めるのは、南側の大井沢口、本道寺口、岩根沢口が充実したことによるという。特に湯殿山への登拝がメインになっていく背景はここにあるようだ。東の肘折口も本来は葉山への登山口ではなかったかと私は考える。
( 関連記事 慈恩寺  旅403 慈恩寺 )

 かつては羽黒山(414m)、月山(1984m)、葉山(1462m)が出羽三山だったという。この三山が神仏習合であった時代、三山を抖擻(とそう)する修行を「三関三渡」といった。
 羽黒山は観音菩薩(現在)、月山は阿弥陀如来(過去)、葉山や薬師岳は薬師如来(未来)とされ、それらの加護と導きにより現在・過去・未来の三関を乗り越え、湯殿山の大日如来(三関を超越した世界)の宝窟に安住し、即身成仏(生きたまま悟りを開く)の妙果を得るというものであった。

 「葉山」信仰とは、祖霊信仰だとされる。葉山は麓山・端山などいくつか漢字表記を替えて表されるが、本来は「端山」だと考えられる。人の霊はすぐには天に昇れないという。
 人が死んだら、一旦は集落からそれほど遠くない端の山である端山(里山)へ葬られる。古代は土葬が基本で、そこで肉体が滅び霊が浄化される。霊は更にその端山から更に高い山へ移り最終的には一番高い深山(みやま・御山)へ移り、しばらく天に近い深山に留まり、浄化されてから天に昇るという。
 つまり、端山と深山は一対の関係にある。ここでは、羽黒山や葉山が端山であり、月山が深山であったと考えられる。かつての出羽三山が、羽黒山・月山・葉山だったということは頷ける。

 近畿地方中心に両墓制(りょうぼせい)があった。これは遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制習俗の一つである。改葬する場合もあるという。
 遺体の埋葬墓地のことを「埋め墓」(葬地)、墓参のための墓地を「詣り墓」(まいりはか、祭地)と言う。
 埋め墓は人里離れた山林などが多く、ここは端山とも考えられる。詣り墓は残されていくが、埋め墓はやがて顧みられなくなる。霊はそこから深山へ移ったと考えられたのかもしれない。

 端山は水源地となることもあり、祖霊信仰だけでなく作神(水神)信仰を伴う場合もあった。特に田の神は春には里におり、収穫が終わった秋には山に帰ると考えられた。


 現在、湯殿山神社本宮において裸足になってご神体に登拝するのは、大日如来と一体になって感得することであり、また湯殿山は神の世界ゆえ、古来より人工は許されず社殿を設けないのだという。
 つまり、湯殿山神社本宮は三山の奥の院で、「三関三渡」をした者が最後に御利益を賜るところで、私のように初めにここに来て、しかもほとんど車で上がって来た者には神は胸襟を開かないのであろう。

 私は羽黒山(414m)、月山(1984m)、葉山(1462m)、湯殿山(1504m)の4つで出羽四山でもよかったのではないかと思うが、三の数字は古来“聖数”とされたようで、三の数字に拘ったようだ。今でも日本三大○○が多いのはこの三という“聖数”によるものらしい。そう言えばオリンピックも金・銀・銅の3位までが表彰台に上れるが、3位と4位では雲泥の差ということになる。

 実はここへ来て分かったことだが、湯殿山本宮の高さは1100mで、湯殿山(1504m)よりも400mも低い場所にある。しかも、湯殿山本宮から湯殿山へ登る登山道はないという。湯殿山は山形県鶴岡市と西村山郡西川町の境にあるが、湯殿山本宮は山形県鶴岡市田麦俣字六十里山(旧朝日村)にある。
 湯殿山本宮は湯殿山の麓にあると言われるが、正確には薬師岳(1262m)の中腹にある。もっとも、湯殿山、薬師岳、仙人岳(1265m)はそれほど厳密に区別されて認識されているわけではなく、合わせて湯殿山と呼ばれているようだ。しかし、ここで押さえておきたいのは、湯殿山登拝と言っても、湯殿山本宮へ参拝することで湯殿山には登頂していないということだ。湯殿山本宮の横を流れる梵字川も月山から流れ出ている。

 明治時代以前は神仏習合していたので、本道寺、大日寺、大日坊、注連寺が湯殿山別当四カ寺として祭祀を司り山岳信仰の一大拠点として繁栄していた。
 羽黒山は江戸時代以降、別当天宥が大僧正天海に帰依し天台宗に改宗したのに対して、湯殿山では古来からの真言宗を守り続け、由緒も羽黒山では蜂子皇子(崇峻天皇第三皇子)が羽黒山、月山、湯殿山を開山したとなっているが、湯殿山では天長10年(833)に弘法大師空海が湯殿山を開山した事になっていた。

 今でこそ羽黒、月山、湯殿山は三山として一体であるが、出羽三山が隆盛を極める江戸時代に於いては湯殿山(湯殿山本宮)に対するアプローチは羽黒側からであり、一方湯殿山側はどちらかと言えば真言宗を中心とした一つの宗教領域を形成していたようだ。そして即身仏の修行はこの宗教領域で行われていたことを注目しなければならない。江戸時代には羽黒山・月山は天台系、湯殿山は真言系とはっきりした色分けがあったようだ。そういえば、月山山頂の月山神社は羽黒町に属している。

 明治時代初頭に発令された神仏分離令、修験道廃止令、廃仏毀釈運動により仏教色が廃され、本社は湯殿山神社本宮、別当寺院だった大日寺は湯殿山神社(山形県西村山郡西川町大井沢中村)、本道寺は口之宮湯殿山神社(村山郡西川町大字本道寺)となり大日坊、注連寺は寺院として独立した。
 注連寺(ちゅうれんじ)の注蓮は注連縄(しめなわ)の“しめ”とも読める。注連寺のある地籍は七五三掛(しめかけ)という。ここから先は湯殿山の禁域であったことを示すという。注蓮寺(真言宗)は湯殿山が女人禁制の時代は女人のための参篭所として賑わったというが、湯殿山との関係を絶った今は荒廃しているそうだ。更に追い打ちをかけるように、七五三掛地区では地滑りが発生し、集落は全戸移転となるようで、注蓮寺だけがぽつりと残される運命だという。

 江戸時代には、西の伊勢詣りに対して、出羽三山奥詣りと称して、両方をお参りする事が重要な「人生儀礼」の一つとされていて、全国からの参拝者たちで賑わったそうだ。
 中でも、湯殿山は特別に神秘的な山とされ、お詣りする際には、あらかじめ厳重な精進潔斎をしなければならず、羽黒修験でも湯殿行を行わなければ、大願成就は達せられないとされていた。
 湯殿山のお蔭で栄えた麓の村々の荒廃は激しいという。ここにも栄枯盛衰、諸行無常が垣間見られる。

 説明板に“五穀を断ち十穀を断って厳しい修行を重ね衆生済度のため挺身された尊い方々であります。”とあるように、即身成仏するにはまず五穀を断たねばならない。米、麦、稗、粟、豆を食べないで五年経つと、身体中から脂肪分が抜けてしまうそうだ。その後、十穀断ちに入る。蕎麦、玉蜀黍、芋、胡麻、麻の食用を禁止して五年経つと、いよいよ行者は断食して入定を待つのだという。
 十穀断ちの時期に木食行をする。木食行では野草や野菜類しか摂取しないという。究極のベジタリアンである。土壌の中には少量の水銀が含まれるのだという。湯殿山の宝前あたりは水銀含有0.04mgで率が高いという。その土地に生育した野草や野菜は、土壌が含有するのとほぼ同率の水銀を保有するそうで、それを食せば水銀は体内に入る。水俣病でも分かるように水銀は体外に排泄されにくいから蓄積され、体内の水銀含有はますます高くなる。どうやら、十穀断ちは水銀の排泄を押さえる効果があるようだ。こうして入定することで質の良いミイラが完成するようだ。こう考えると入定直前には軽い水銀中毒だったのかもしれない。

 現在全国に24体のミイラがあるという。そのうち6体は庄内地方にある。その6体とも湯殿山で修行した真言系のものだ。その六体は既に現地説明板にあった。
 本明寺に安置されている本明海上人の即身仏は庄内地方の即身仏では最古(1683年)のものだという。
 上人の俗名は富樫吉兵衛と言い、庄内藩4代藩主酒井忠当(ただまさ)に仕えていた。忠当が病にかかったとき、吉兵衛に湯殿山へ代参させ病気平癒を祈願させた。忠当は治ったが吉兵衛はそのまま仙人沢に留まり修行を続けたという。上人は61歳で入定した。
 注連寺の即身仏は鉄門海上人で伝説の多い人だ。入定は1829年(文政12年)で62歳だったとされるが、はっきり分かっていない。
 大日坊の即身仏は真如海上人で1783年(天明3年)96歳で入定したというが、96歳ならば入定と言うよりも老衰死であろう。大日坊では1875年(明治8年)の火災で焼失するまで即身仏は3体あったという。
 南岳寺は注連寺の末寺だという。ここの即身仏は鉄龍海上人で1873年(明治6年)に入定したという。
 海向寺も注連寺の末寺で、忠海上人は1755年(宝暦5年)58歳で入定し、円明海上人は1822年(文政5年)に入定した。

 私が今注目している円空(1632~1695)も入定したというので、最期は木食行をしたのであろうか。円空は多くの円空仏で知られるが和歌も詠んでいる。芭蕉(1644~1694)と同じ時代を生きた人だ。
 芭蕉は1689年(元禄2年)46歳で、湯殿山神社本宮を訪れている。羽黒山から月山を経て湯殿山に至り、また羽黒山へ戻っている。現在は月山の8合目まで車で上がれるが、当時は全て歩きか途中まで馬であるから、芭蕉は山小屋のようなところで一泊している。 芭蕉については出羽三山神社の所で少し詳しく述べたいが、どちらかと言えば芭蕉は神社フリークで寺より神社に興味があったようだ。しかし、俳諧をやる人は神主よりも僧が多く、もちろん寺にも泊まった。何れにしても江戸時代は神仏習合の時代であった。

 芭蕉はこの御神体を見て何を思ったのであろう。
 芭蕉は『おくのほそ道』の湯殿山の部分で、「総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず」と記し、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな 」と句を詠むのみにとどめている。
 湯殿山神社の御神体については「語るなかれ、聞くなかれ」という決まりがあり、現在でも写真撮影が禁止されている。
 
 芭蕉の、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな 」は、ここが「語るなかれ」の場所だからこのように詠んだのではない。勿論、それに引っかけてはいるが、袂(たもと)を濡らすのは涙である。芭蕉には当然他人に語られぬ過去があり、それは涙を誘うようなものであったのだろう。芭蕉が訪れた頃の本宮がどのようであったかは分からないが、そのころの湯殿山の実態や芭蕉の過去の悲しみを探ることにより、この句に隠されたメッセージが明らかになるのだろう。
 現在、旧國幣小社であった湯殿山神社本宮では祭神として大山祇神(山の神)・大己貴命(建国神)・少彦名命(医薬神)を祀っているが、当時は大日如来と薬師如来がメインであったことは想像される。月山神社が、月読命(つくよみのみこと)を祀り、月読は阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)と同体とされたことも考慮する必要がある。
 祭神については後で考察してみる。

     湯殿山神社本宮(2)へ

この記事へのコメント

黒猫
2022年10月25日 20:04
いくら自分で撮ったものではないとは言え、本来撮ってはいけないものを載せるのは良くないと思います。
本来撮った人がネットから消しても、ここに残ってしまうし、載ってる場所の数が多いほど人の目に触れる回数も増えてしまうので
ハッシー27
2022年10月29日 20:14
 黒猫さんのおっしゃる通りです。
 削除して、記事の一部を変えました。

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