旅197 大宰府政庁跡・水城跡・大野城

2012年 5月12日 No.6
大宰府政庁跡(都府楼跡)
 大宰府政庁跡(都府楼跡)は、かつては「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、九州を治める役所であった大宰府の政庁があった場所である。7世紀後半、大和朝廷は那の津(現在の博多湾)の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)とした。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであったという。
 現在も大宰府政庁跡の中心にはその大きさをしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊そして周辺の役所跡等が整備されて広い公園となっている。(礎石はレプリカだと言われるが、確かめてはいない。説明板には、「現在見えている礎石は本来の位置のもの、移動されたもの、コンクリートで新しく作ったものの3種類がある」と書かれていた。)
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 大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。大宝律令以前には吉備大宰(天武天皇8年(679年))、周防総令(天武天皇14年(685年))、伊予総領(持統天皇3年(689年))をはじめ東国・播磨などにもあった。701年の大宝律令制定によって、筑紫太宰府を除き、他の全ては正式に廃止された。
 なぜ筑紫太宰府だけが残されたかというと、古代よりこの地は大和朝廷の朝鮮半島政策のための外交・貿易・軍事上、重要な拠点でもあったからである。歴史的に見ても、ここを大和朝廷の直轄地として押さえ、特別な権限を持たせた行政機関を置くことは必要なことであった。

 現在地に最初に、「太宰府政庁」の元を置いたのは天智天皇である。 当時、大和朝廷の朝鮮半島・唐等との外交・国防と西海道諸国の支配のための出先機関として、博多湾岸に「那津官家」が置かれていた。天智4年(665)、天智帝はこの「那津官家」を現在地(約15km内陸)に移した。
 移転の原因となったのは、天智2年(663)「白村江の戦い」での大敗である。天智帝は戦勝国である唐・新羅がその勢いに乗って、朝鮮半島に最も近い西海道(九州)に来襲することを想定し、これを恐れた。敗戦の翌年から始まる矢継ぎ早の対馬、玄海、有明海への広範囲にわたる防衛網の構築、さらに4年後には飛鳥から近江大津へ遷都までもが行われた。この防衛の一環として戦略上脆弱な地にあった「那津官家」を、防御強固な地理的条件が備わったこの太宰府の地を選定し移したのである。これが太宰府の草創である。つまり、当初の筑紫太宰府は、大和朝廷の辺境防衛を担う総督府というべき極めて軍事的性格の色濃い政庁であったと考えられる。

 663年の「白村江の戦い」とは、660年に唐と新羅の連合軍によって滅ばされた百済の復興運動の一つだ。天智はなぜ、危険を冒してまで百済の復興を助けたのだろう。一度滅びた百済を大国である唐を敵に回してまで復興させる必要はどこにあったのか。そこには天智と百済王朝との退っ引きならない関係があったとしか考えられない。その結果、天智は日本を滅亡の危機に陥れた。太平洋戦争の敗戦により日本は米軍に占領されたが、それ以前の危機としてはこの「白村江の戦い」が最大のものだったと考える。それは元寇以上のものだったと考えてよい。

 しかし、天智は運が良かった。元もと唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があった。「白村江の戦い」の3年後、唐は高句麗侵攻を開始し、668年に高句麗は滅亡した。次はいよいよ日本侵攻かと思われたが、今度は新羅が唐に対して反乱を起こした。何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受けて属国となる事になったが、唐は領土を新羅に管理させるという形式をとったため、結果として675年に新羅によって半島統一(現在の韓国と北朝鮮南部)がなされた。
 この間に天智は防衛体制を整え、唐との国交正常化を図り、何とか危機を脱することができた。

 歴史の中で人は評価されるが、私は日本を危うくさせた天智は愚帝だと思う。天智は傀儡ではなく権力を握っていた。自分で判断した結果、百済再興に突き進んだのだ。そして大敗し、その後、防衛のための山城作りなどの土木工事に多くの民をかり出した。当然国は疲弊した。天智の治世に大和朝廷周辺で不審火が続いたことを見逃してはならない。これが人民の声なき判定(天智NO!)であったことは想像に難くない。ある意味では「壬申の乱」の勝敗は戦う前から決まっていたのかもしれない。

 「白村江の戦い」の日本側の対応を見ておこう。
 百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信や黒歯常之・僧道琛(どうちん)らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国(日本)に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。中大兄皇子(天智天皇)はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。
 661年5月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。
 662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。兵力2万7千人。
 その後、第三次倭国軍が出発。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県清水市を本拠とした)、兵力1万余人。
 663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)での戦いで、倭国・百済遺民の連合軍は唐・新羅連合軍に大敗を喫する。
 白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済貴族を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。
 『古事記』『日本書紀』編纂の名目で、二神社十六家の古文書や系図が没収されたことは、太宰府天満宮の記事で述べた。この遠征軍の中に阿積氏(安曇氏)、阿部氏、巨勢氏、上毛野氏の没収された四家が入っているのが興味深い。
   ( 関係記事 旅196 太宰府天満宮 )
  また、安曇比羅夫はこの戦いで戦死している。
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 「白村江の戦い」に至るまで日本と朝鮮半島ではどんな交流があったのだろう。主なものを挙げてみた。
・372年、百済消古王、七枝刀1口、七子鏡1面などをおくる。(石上神宮七支刀)
・391年、倭軍、渡海して百済・新羅を攻撃する。(好太王碑文)
・512年、百済の要請に応じ、伽耶の4県を割譲。
・527年、伽耶復興のため、近江臣毛野を遣わす。筑紫国造磐井、新羅と通じ、近江毛野軍を遮る。
・554年、日本・百済両軍、新羅と戦う。百済聖明王敗死。(聖明王は538年仏像・経論などを日本におくった王)
・562年、新羅、伽耶諸国官家を滅ぼす。
・621年(推古29)、新羅、朝貢。初めて上表。
・631年(舒明3)、百済王、王子豊璋を日本に送る。
・660年(斉明6)、百済滅亡。
・663年(天智2)、白村江の戦い。

 こうやって見てみると百済は日本の友好国であり同盟国のようでもある。豊璋王は日本と百済の同盟を担保する人質ではあったが、倭国側は太安万侶(古事記の制作者)の一族多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は賓客扱いであり決して悪くはなかった。

 661年、斉明天皇、中大兄皇子などは百済救済のために九州につく。そして、7月に斉明天皇は朝倉宮で没する。中大兄皇子の称制が始まった。661年5月、豊璋は30年ぶりとなる帰国を果たし、豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴された。しかし、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれた。663年6月、豊璋はついに鬼室福信を殺害した。この暴挙により百済復興軍は著しく弱体化したという。白村江の戦いの大敗で、豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたという。

 豊璋は鬼室福信を殺害したと言うが、白村江の戦い2ヶ月前に味方の将軍を殺すだろうか。作戦の違いで衝突することはあったとしても、この大事なときに百済遺民軍の中心人物を殺害しても益はない。そして、白村江の戦いで大敗した後、豊璋の戻る場所は日本以外考えられない。『新唐書』では「豐走不知所在」とされ豊璋の逃走先は不明となっている。日本に来た百済遺民の記事の中に、「天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。」とある。鬼室福信も豊璋に殺されたのではなく、戦死したのではないかと考えたい。鬼室集斯は滋賀県蒲生郡日野町小野に鎮座する鬼室神社に祀られている。


 百済王子豊璋=中臣鎌足(藤原鎌足)という仮説がある。これについてはその弟・善光(または禅広)のことと一緒に私にはあるアイデアがあるが、それは先に回すことにする。
 しかし、豊璋が鎌足と同一人物だったならば、多くの謎が解ける。中臣鎌足(藤原鎌足)は中大兄皇子(天智天皇)の盟友だ。二人は645年に乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺して、蘇我氏から政権を奪い大化の改新を成し遂げている。その正当性を『日本書紀』の中で述べ、その時の様子を不自然なほど詳しく表し、大化の改新が歴史の中でいかにエポックメイキングな出来事かを喧伝している。お陰で蘇我氏は悪役に成り下がってしまった。蘇我氏の悪役のイメージが強まったのは、国学が盛んになる江戸時代だという。
 中臣鎌足の出自はよく分からない。いきなり歴史に登場したような感もある。もし、鎌足が豊璋ならば中大兄皇子が日本を危険にさらしてまでも、盟友の祖国を復興させようとした動機が分からなくもない。中大兄皇子は豊璋を本国へ送り返すとき職冠を与えた。そして、中臣鎌足は亡くなる際に天智天皇より藤原の姓と大職冠を与えられている。

 さて、話が脱線してしまったので、太宰府政庁に戻そう。
 白村江の戦いの危機を脱した日本は、他国からの脅威に対抗するために中央集権国家に向かって邁進した。その手本としたのが唐の律令制度だ。日本は負けた国から学ぶことを忘れない。
 天智帝没後、壬申の乱で天皇の地位を奪取した天武帝もこれを引き継ぎ、内戦の勝利者という圧倒的な力を背景に、東アジアに於ける最先端の国家統治制度である律令制度に基づく国家建設を急いだ。それは天武帝没後も、持統・文武・元明・元正天皇と四代の天皇に受け継がれた。そして、わが国初の本格的な律令法典である大宝律令の策定・施行と平城京遷都へと結実する。
 確かに手本にしたのは唐の律令制度だったはずだが、実際に出来上がった日本の律令制度は似て非なるものになっていた。そこには一旦近江朝の滅亡で端に追いやられた藤原氏の復活の歴史があった。唐の律令制度は最終的には皇帝に権力が集中するような仕組みだが、日本の律令制度は天皇が絶対的権力者とはなっていない。どこか名誉職的な部分がある。それは責任が天皇には及ばないシステムでもあるが、元もと大和朝廷の大王は豪族たちに推戴された祭祀者的一面があることが起因しているようだ。日本の慣習の都合のいい部分だけを巧に取り入れているようにも見える。藤原鎌足の次男・藤原不比等は女帝の時代に暗躍して、気がついてみればその後の自家の発展に都合の良い部分を律令の中に埋め込むのに成功している。大宝律令に続く養老律令でも更にそれを前進させた。こうして藤原数百年の繁栄の基礎が固められた。律令が成立した当時、それを解する者はごくわずかだっただろう。藤原は法解釈においても自分の都合を優先させた。

 この律令制度の手本を唐に求めたように、都づくりも長安に学んだ。この頃、唐や新羅の使節、商人が太宰府に来航するようになった。東アジア諸国の役人や商人が日本を訪れて最初に出会う玄関口・太宰府は、その先進性と国力を誇示する場でなければならなくなった。こうした国家的要請に耐えるものとして第二期太宰府政庁は着工されたのである。
 この太宰府政庁建設を主導したのは、和銅元年(706)、太宰帥に任じられた中納言・粟田真人である。粟田真人は、大宝律令の編纂に参加した後、大宝元年(701)に遣唐執節使として唐に渡り慶雲元年(704)に帰国している。太宰府政庁の建設は平城京の建設と同時期に行われたようだ。唐・長安の最新情報が造営に大きな影響を与えたことは間違いない。

 長屋王の祟りでもあったのだろうか、737年、不比等の子である藤原四兄弟が次々と天然痘で倒れた。その隙を突いて実権を握ったのは橘諸兄である。そんな中、738年藤原四兄弟の三男宇合の長男・藤原広嗣が大宰少弐に左遷される。広嗣は左遷を不服とし、吉備真備と僧正・玄昉の起用を批判した。そして、740年広嗣は弟・綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こした。しかし大野東人を大将軍とする追討軍に破れ敗走し、最後は肥前国松浦郡で捕らえられ、同国唐津にて処刑された(藤原広嗣の乱)。広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建された。新薬師寺の西隣に鎮座する鏡神社はそれを勧請したものだという。

 藤原広嗣の乱の影響で数年間大宰府は廃止され、その間は大宰府の行政機能は筑前国司が、軍事機能は新たに設置された鎮西府が管轄していた。つまり、太宰府は742年(天平12年)1月にいったん廃止され、743年(天平15年)12月に筑紫に鎮西府が置かれた。しかし、745年(天平17年)6月には太宰府を復活させている。
 どういう訳か、藤原広嗣の孫・藤原資盈(すけみつ)の伝承が三浦半島の方に残っている。
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 粟田真人によって政庁が造営されてからおよそ二百数十年を経た天慶4年(941)に、藤原純友によって焼き討ちされ焼亡する。以前は藤原純友の乱で焼亡した後は再建されなかったという考えが主流であったが、発掘調査の結果、さらに規模を拡大して再建されていることが明らかとなった。
 この藤原純友の乱に際して山陽道追捕使に任じられていた小野好古は同年、博多津で純友軍を壊滅させ、藤原純友は根拠地の伊豫の日振島に敗走、同地にて伊予警固使の橘遠保に討たれてその生涯を閉じる。そしてその4年後の天慶8年(945)に、小野好古は太宰大弐として太宰府に赴任している。従ってこの再建を主導したのは小野好古であると考えられるが、その財政的負担は平安京の中央政権によって行われたのか、あるいは海外交易で巨大な富を蓄えつつあった博多を中心とする商人達によってなのか、これら再建にかかる具体的なことは史料がなく、よくわかっていないのが現状である。
 律令制度が弛緩している時期にあたるため、以前より大規模な造作が行われていることに多くの研究者が驚かされたが、現在では、当時の政庁運営で中心的役割を担っていた在庁官人層の拡大に対応するものと理解されている。律令制度が弛緩している時期でもしっかり役人だけは増えている。今に続く官僚制度は中世の武家社会を挟んだものの、この頃からのもので、天降りのようなものや既得権の維持などは行われていたのだろう。
 再建後と思われる天徳2年(958)大宰大弐・小野好古が安楽寺天満宮で曲水宴を、康保1年(964)同じく安楽寺で「残菊の宴」を行うなど記録が残り、この頃までは太宰府は朝廷の西海道を治める府として権威と権力を保持していたのであろう。
 しかし、太宰府を根源的に支えていた律令制度そのものが実質的な崩壊が進んでいたこの時代に在って太宰府の終焉はもう間近であった。

 寛仁3年(1019)、高麗の北方のツングース系民族・女真が北九州一帯に来襲し、一部記録されているものだけでも、殺害された者・数百人、連れ去られた者・千余人など甚大な被害を受ける事件が発生する。「刀伊の入寇」である。結果としては太宰権師・藤原朝臣隆家らの奮戦で撃退するものの、太宰府はこれ以降急速に衰退に向かったのではないかと考えられている。だが、果たして、太宰府がいつごろまで存続していたかなど定かなところは確実な史料が無いなど研究は進んでいない。 
 1158年(保元3年)に平清盛が大宰大弐になると、平氏政権の基盤である日宋貿易の意図もあり、やがて北九州での政治的中心地は、大宰府から約15km北の博多(福岡市)へ移る。鎌倉時代に入っても大宰権帥や大宰大弐は、広大な大宰府領や対外貿易の利益から経済的に魅力のあった地位であった。


水城跡(みずき あと)
 太宰府政庁跡から3~4kmのところに水城があった。水城は、7世紀中頃に構築された国防施設。現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけてあった。1921年に水城跡として特別史跡に指定。史跡指定面積約15万平方メートル。
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  後に見える雑木林のようなものが水城。
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 現地案内板には以下のようにあった。
『 特別史跡 水城跡
 7世紀中頃の朝鮮半島は百済・新羅・高句麗の三国が抗争を繰り返していました。663年、朝廷は唐・新羅に攻撃された百済を支援するため多くの兵を送りましたが、白村江の海戦で敗れました。唐・新羅の日本への来攻を恐れた朝廷は、大野城や基肄城をはじめ各地に防衛施設を造りました。水城もその一つです。
 水城は664年、福岡平野からの外敵を防ぐため、吉松丘陵と国分の丘陵を塞ぐように築かれた土塁です。土塁はほとんどが人工の盛土で、全長1.2km、幅77m、高さ約9mを測ります。土塁には内濠から外濠(博多側幅60m)への導水施設である木樋を数ヶ所設置していました。また、土塁を通過する官道には東西それぞれに城門がありました。
 大野城市から春日市にかけても丘陵の谷間を塞ぐように、上大利(大野城市旭ヶ丘)、大土居(春日市昇町7・8丁目)、天神山(春日市天神山1丁目)などの小水城と呼ばれる土塁があり、水城とともに防衛線を形成していました。
 「水城」の名の由来
 『日本書紀』には「大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城といふ。」と記されています。それを裏付けるように、発掘調査により濠と木樋が発見されました。また、東門近くの井戸から墨で「水城」と書かれた土器が見つかり、これにより当時の人が実際にこの土塁を水城と呼んでいたことが分かりました。
 土塁の構造
 土塁は上下2段に造られ、横からの断面図は凸字形をしています。土塁の下には樹林の枝葉が敷かれています。これは敷粗朶(しきそだ)工法といい、基礎の滑りを抑える工法で、調査で確認された枝葉を見ると落葉樹に葉が付いていること、果実が未成熟であること、葉の大きさなどから初夏(5月下旬~7月)に敷き込んだと推測されます。
 その敷粗朶の上に盛られた土塁は、質の異なる土を交互に突き固める版築工法によって造られています。これらの工法は時代を超えて現代の土木技術の中に生きています。 』
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 現地案内板には以下のようにあった。
『 水城は664年に築造された土塁で、663年白村江の戦いで敗北後、大野城や基肄城などと共に築造された防衛施設です。土塁はここ国分側の丘陵と住宅街になっている正面の吉松丘陵との1.2kmを塞ぐように造られた人口の盛土です。土塁の下には樹木の枝葉が敷かれています。これは敷粗朶工法といい、基礎の滑りを抑える工法で、調査で確認された枝葉を見ると落葉樹に葉が付いていること、果実が未成熟であること、葉の大きさなどから初夏(5月下旬~7月)に敷き込んだと推測されます。
 その敷粗朶の上に盛られた土塁は、質の異なる土を交互に突き固める版築工法によって造られています。土塁は大きく2段に造られ、幅77mの平坦な土塁(下成土塁)の上に、幅23m、高さ5mの台形状の土塁(上成土塁)が造られています。博多側にテラスが設けられていることは、防衛上不必要と考えられ、急角度の上成土塁の地滑り防止のために造られた押さえ盛土と考えられています。
 現在水城跡周辺には住宅が迫ってきていますが、土塁を挟んで博多側には幅60mの外濠があったとされ、太宰府側には内濠があったと考えられています。
 眼下には県道と市道が通っていますが、手前の市道付近を奈良時代に官道が通り、大きな礎石がある付近に東門があったと考えられています。
 正面に水城跡を眺めると、真正面に遠く背振山を望み、水城の中央付近を御笠川が流れ、鉄道・高速道路・国道が横切っていることがわかります。九州自動車道については、この水城跡の隙間(御笠川付近)を通過する計画が出された際、景観の問題が議論され、トンネル工法や迂回させる方法などの代替案が検討されました。しかし、御笠川や鉄道の地下を通過することでの安全上の問題、さらに多額な費用がかかるなど様々な理由から、ほぼ当初の計画通りに決まりました。ただし、景観に配慮し、道路の高架の高さを水城跡の頂部より低くすることになったのです。よって、現在見るような低い高架が造られ、地面すれすれに高速道路が通っているのです。 』
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 案内板には、「現在水城跡周辺には住宅が迫ってきていますが、土塁を挟んで博多側には幅60mの外濠があったとされ、太宰府側には内濠があったと考えられています。」とあったが、遺跡などに行ってみて感じるのは、遺跡の場所や廃寺の場所などに民家が建ていることだ。幅60mの外濠(深さ4m)に幅77mの土塁、そこに内濠を加えると優に幅140mは超えるだろう。水城にもこれだけの幅の土地が1.2kmにもわたって使われた。昔は遺跡などがあったのだから個人の土地ではなかったはずだ。戦後の混乱があり、土地所有者が分からなくなり、引き揚げ者が勝手に住みついた場所もあるようだ。いつから個人の土地になったのだろう。律令制度のように土地が国家のものだった時代とは違う。今はここが自分の土地だと証明してくれるのは役所だ。登記簿により証明される。
 数年前、私の家の近くに新しい道が開通して、その道に出る古い道も信号ができて整備された。その時、測量が行われ、カーブ部分が広くなった。そのカーブ部分に建っていたアパートの敷地が1m余り道路にはみ出していたのだ。もちろんその部分は道路になり車が曲がりやすくなった。私の住んでいる地域にも青地に個人所有の民家が建っているケースがまだあるようだ。

 663年、白村江の戦いで大敗した後、当時称制を執っていた中大兄皇子は、唐・新羅がさらに博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、万一の場合に備えて翌664年に水城を築かせた。翌665年には北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城(朝鮮式山城)を築かせた。
 667年には都を内陸部の近江大津宮に遷した。その翌年の正月に中大兄皇子はやっと即位した(天智天皇)。
 築城にあたっては、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)が建設の指揮を執った。
 後年、1274年の文永の役では、襲来する蒙古軍に対する防衛線として改修が施されたが、ここが実際に戦場となることはなかった。

 大伴旅人などの歌碑があった。
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 大伴旅人は728年(神亀5年)から730年(天平2年)の晩年、大宰帥として大宰府へ赴任した。赴任した直後に妻丹比郎女を失った。大伴旅人は長屋王を支持していたので太宰府に左遷されたともいう。
 730年(天平2年)冬12月、大宰帥大伴旅人は大納言にすすみ太宰府を離れた。水城で旅人を見送る官人たちに交じって、日頃旅人と慣れ親しんでいた遊行女婦(うかれめ)がいた。名は児島。別れに際して児島は旅人に二首の歌を贈った。
「 凡ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと 振りいたき袖を 忍びてあるかも 」
(あたり前なら、ああもこうもしましょうものを、恐れ多くて、痛いほどにはげしく振りたい袖も我慢しているのです)
「 倭道は 雲隠りたり 然れども わが振る袖を 無礼(なめし)と思うな 」
(大和への道が雲に隠れ、あなたのお姿はやがて見えなくなるでしょう。それでも私が別れを惜しんで振る袖を、無礼だとお思いになりませんように。)
 これに和(こた)えて、大伴旅人は返歌した。
「 倭道の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも 」
(大和への道の途中の吉備国の児島を通ったならば、きっと同じ名の筑紫の児島のことが想われることだろう。)
「 ますらをと 思へるわれや 水くきの 水城のうえに なみだ拭(のこ)はむ 」
(涙などこぼさぬ立派な男子だと思っている私だが、別れに際して水城の辺りに立ち、涙を拭うことであろうか。)
 これが二人の永久の別れとなった。都に帰った旅人は、翌7月、66歳で亡くなった。
 この歌は、いずれも万葉集にある。歌碑は、児島の一首目と旅人の水城を詠み込んだ二首目である。

 解説板の最後に小さな文字で(この解説板は「歴史と文化の環境税」で作成しています。)と書かれていた。
 「歴史と文化の環境税」とは歴史的な文化遺産や観光資源の保全・整備を図ろうと、太宰府市が2003年5月から、主に観光客向け有料駐車場の事業者を対象に課している法定外普通税。通称「駐車場税」。税額は駐車1回ごとに二輪車50円、乗用車100円、マイクロバス300円、大型バス500円だという。
 有料駐車場の事業者は当然その税額を駐車場料金に乗せているだろう。こうして観光地の駐車場料金が高くなる。我々は知らない間に税金を納めている。私も太宰府天満宮のそばの駐車場を利用した。本来、このような解説板は市の観光課が建てることが多い。地方の自治体も財政的に苦しいようで、何とか理由を付けて税収を上げるのに苦慮している。 私は多少の負担をしても解説板や案内板が整備され環境が整っている方がいいと考える。しかし、折角の解説板や案内板に誤字脱字があり残念なことがある。それが教育委員会のものだったりすると、更にがっかりする。
 ここの説明板にも初歩的な脱字があった。
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(最後の部分の「東門があった(と)考えられています。」の「と」が抜けている。)


大野城 (筑前国)
 大野城(おおのじょう又はおおののき)は、飛鳥時代に築城された筑前四王寺山にある古代山城である。所在地は福岡県大野城市・福岡県糟屋郡宇美町。なお、大野城市の名称はこの大野城に由来するという。それにしては大野城の場所が市の片隅にありすぎて違和感がある。1952年に特別史跡に指定された。
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『 日本最古のお城 ! ?「大野城」
 四王寺山の一帯には、大野城と呼ばれる広大なお城が残されています。『日本書紀』によると、このお城は飛鳥時代(665年)に大和王権が唐・新羅連合軍の進攻に備えて築いたとされ、このことから大野城が文献に残る最古のお城であることが分かっています。
 日本最古のお城とは、どのような姿なのでしょうか? ここでは、最新の発掘調査成果を基に奈良時代の大野城を再現してみました。 』
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 車で山の上まで登っていった。休んでいた土木関係者とおぼしき人に大野城の場所を訊いてみた。
 「ここ全部。みんな、城のような建物があると思って来るけど、この山全体が城だったみたいだよ。」

 どうも古代の城で、神籠石式山城というものらしい。戦いの時、女・子どもなどの非戦闘員も含めて逃げ込み、敵から身を守る防衛施設だったようだ。

 663年の白村江の戦いにおいて大敗を喫した後、倭国は防備を固めるため、様々な防衛施設を建設したことが『日本書紀』に記されている。
 664年、対馬・壱岐・筑紫に防人とのろし台を設置、大宰府の西方に水城を築造。翌665年(天智4)8月、長門に城を築き、同年同月に亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)を筑紫へ派遣し、大野と椽(き)に城を築かせた。このうち、筑紫の大野に築かれた城が大野城である。椽に築かれた城は基肄城と比定されている。

 大野城の築城箇所は大宰府北方、大宰府の真北標高約410mを最高峰とする四王寺山一帯に比定されている。四王寺山には、尾根をつたって延々8200m以上に及ぶ土塁が山腹をめぐり、土塁が谷にかかるところでは、石垣が築かれ、北方に1箇所、西南に1箇所、南部に2箇所の城門を開いている。
 城内の高く平たいところには数棟ずつ7箇所ほどに、都合70棟ほど礎石群が残っている。なかには望楼あるいは屯所的なものもみられるが、大多数は梁間三間、桁行五間という規格に統一され、礎石を用いた総柱の建物である。これらは高床式の倉庫であり、武具の他、炭化した米粒などが検出されている事から穀物なども貯蔵していたことが分かる。
 大宰府北方という立地から、大宰府防衛を目的とした城であると考えられている。
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 現地説明板より
『 特別史跡 大野城跡 百間石垣
 大野城の城壁は土を高く盛り上げた「土塁」で囲まれているが、起伏の激しい地形のため谷間は土塁ではなく石を積み上げたダムのような石塁とし、急傾斜部は石垣を造るなど工夫をこらしている。この「百間石垣」の名称は、四王寺川の部分を石塁とし、それに続く山腹部を石垣とした城壁で、長さが180mほどであることから名付けられたものである。平均4mくらいの高さが残っており、川底部では石塁幅は9mほどある。外壁面の角度は75度前後である。
 この川の中から今までに3個の礎石などが発見されており、川に近い場所に城門があったと考えられる。 』

 大野城と共に築かれたとされる基肄城は、もっと内陸、県境を少し越えた佐賀県の基山にある。直線距離で約15kmはあるだろうか。

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