旅 178 知覧平和公園

2012年 5月10日 No.2
知覧平和公園
 ここは、昭和16年大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が設けられて連日隊員の訓練を重ねたところで、、国際情勢が次第に緊迫し険悪となるにしたがい、遂に昭和20年3月本土最南端航空基地として陸軍最後の特攻基地となった。旧知覧飛行場跡は現在公園になっている。
画像

画像

この歌をつくった鶴田正義さんは南洲神社名誉宮司だった。
画像

画像

 飛行場跡だけに広い公園で立派な野球場もあった。多分、甲子園大会の地方予選の球場の一つにもなっているのではないかなどと考えた。
画像

 一式戦闘機「隼」III型甲の実寸大精巧レプリカがあった。映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』の撮影に使用されものだという。
 「隼」は当時この特攻基地からは97式戦闘機に次いで多い120機が飛び立っている。

 この公園内には「知覧特攻平和会館」や「特攻平和観音」がある。知覧特攻平和会館は朝早いのでまだ開館していなかたが、幸いにもガラス越しに中の様子が見えたので飛行機の写真を撮った。知覧特攻平和会館は1985年(昭和60年)、 旧陸軍特別攻撃隊隊員の遺品や関係資料を展示し、当時の記録を後世に伝えるという目的のために建てられた。
画像

画像

画像

画像

画像

 知覧特攻平和会館には、四式戦闘機「疾風」I型甲と三式戦闘機「飛燕」II型改と零式艦上戦闘機五二型丙の3機が展示されている。中に入れなかったのでどれがどれだか分からないが、大きく破損していて機体前部と主翼及び主脚のみ現存の状態のものが零式艦上戦闘機五二型丙(いわゆる零戦)だということが分かる。プラモデルが下に置かれていた。
 この零戦は薩摩川内市の甑島沖約500m、水深約35mに沈んでいたものを引き上げ修復したものだという。甑島と言えば普段ジョナサンでよく食べるキビナゴサラダのキビナゴは甑島産だ。零戦は海軍の戦闘機でこの知覧特攻基地とは直接関係はない。
画像

説明板には以下のようにあった。
『 三角兵舎は特攻隊員の宿舎でありました。敵の目を欺くため、松林の中に半地下豪をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ擬装してありました。
 各地から集まった隊員は2~3日後には雲のかなた沖縄の空に散華されました。出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会が催され、酒を酌み交わしながら隊歌を歌い、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙等をしたためて、出撃して征ったのです。
 ここに三角兵舎を復元し当時をしのぶよすがとするものであります。 』
画像

案内板には以下のようにあった。
『 観音の由来
  太平洋戦争末期の沖縄戦において1036名の特攻勇士が身を以て示された崇高至純の殉国精神を顕彰し、世界の恒久平和を祈念するため、旧知覧飛行場跡地に特攻平和観音堂を昭和30年9月28日に建立し観音像を安置しています。
 この観音像は大和法隆寺の夢殿に奉安してある秘仏「夢ちがい観音像」を特別のお許しを受けて謹鋳した一尺八寸(54cm)の金銅像です。
 知覧町では昭和30年奉安以来毎年5月3日、知覧特攻基地戦没者慰霊祭を挙行し、御霊らの慰霊顕彰に努めています。
 尚、観音像の体内には特攻勇士の芳名を謹記した霊名録が奉蔵されています。
  知覧特攻慰霊顕彰会  』
 また、他の現地案内板には以下のようにあった。
『 知覧特攻平和観音について
 この地は昭和14年ごろから陸軍飛行場としての調査が始められ、次いで昭和15年建設に着手。大東亜戦争が勃発した直後、すなわち昭和16年12月24日に大刀洗陸軍飛行学校、知覧分教所として正式に開校された。翌、昭和17年1月30日、第十期陸軍少年飛行兵78名の紅顔の若鷲たちが、操縦教育を受けるため、完全武装の姿で知覧駅に到着、駅頭を埋めた町民たちの熱狂的な大歓迎を浴び、飛行場まで歩武堂々の隊列行進をした。95式練習機(赤トンボ)による初飛行は2月4日に行われた。
 南国とはいえ、寒風肌を刺す厳冬のなかで一撃必殺の闘魂に燃えた若鷲たちの必死の訓練は猛烈を極めた。従ってこの日を境にそれまで静かな佇まいの城下町であった知覧町は一転して爆音に明け暮れた。だが、当時、この飛行場が3年後に至り痛恨無比の特攻肉弾の基地になろうとは町民の誰もが夢窓だにしなかったことであろう。
 昭和20年連合軍による飛石進攻作戦はすさまじく、戦局は急速に衰退の一途をたどりつつあった。同年3月25日、敵は、遂に沖縄に防衛戦の一角、慶良間列島に上陸を開始するにおよび戦局は最悪の事態を迎えた。そこで、これまでの敗勢を一挙に挽回する手段として、世界戦史にその類例をみない一機よく巨艦を屠る必死秘中の体当たり攻撃がこの基地から敢行され、終戦までおよそ1026柱の若い生命が完爾としてこの地を出撃、雲流るる沖縄の空に散華された。
 知覧町では、これら特攻勇士が身を以て示された崇高至純の殉国精神を顕彰、ご英霊をお慰め申し上げ、世界の恒久平和を祈念するため、関係将士ならびに念願を同じくする有志一同の浄財をもって知覧町旧飛行場跡に、特攻平和観音堂を昭和30年9月28日に建立し、観音像を安置いたしてあります。
 この観音像は陸海軍特攻隊烈士の不滅の英霊を平和観音堂に顕現して、その忠烈な偉業を顕彰し、永遠のご冥福をお祈りするため、元海軍大将及川古志郎、同高橋三吉、元陸軍大将河辺正三、元陸軍中将菅原道大、元海軍中将寺岡謹平などの諸氏が発起人となり有志の方々に喜捨を仰ぎ昭和27年春、特攻平和観音としてつくられたもので、この観音像は大和法隆寺の夢殿に奉安してある秘仏「夢ちがい観音像」を特別のお許しを受けて謹鋳されました。一尺八寸の金銅像で現在一体は東京世田谷山観音寺の安置され毎年秋分の日に法要が行われており、同じ一体を当時の航空総軍司令官河辺正三大将、第6航空軍司令官菅原道大中将のお二人が知覧に是非お祀りいたしたいと持参されたのが知覧特攻平和観音です。この観音像の体内には特攻勇士の芳名を謹記した巻物が奉蔵されており、毎年5月3日(平和憲法記念日)に知覧特攻基地戦没者追悼式として、盛大に慰霊祭が挙行されています。なお、この地に眠られる特攻勇士のご英霊をお慰めすることは勿論そのご遺徳を後世に永く伝えるため、昭和46年の秋、関係者が相集まり「知覧特攻慰霊顕彰会」を結成、特攻銅像の建立と同遺品館の建設を目指し、全国の各界、各層に呼びかけ、浄財を仰ぎましたところ、たくさんのご芳志をいただきました。これらの清きご芳志は、平和の守護神として、大空にそびえ建つ特攻銅像となり、崇高なご遺徳をしのぶ遺品館(知覧特攻平和会館の前身)や三角兵舎復元など、また特攻勇士が安らかに眠られる特攻平和観音堂とともに、日本民族の平和への象徴として知覧原頭に永遠に光り輝くことでありましょう。
   知覧特攻慰霊顕彰会  』

 知覧特攻平和会館にしても特攻平和観音にしても、私には「特攻」という言葉と「平和」という言葉が結びつかず違和感を覚える。それに、現地案内板も特攻作戦は当時の戦局のなかでは最悪ではあるが仕方がなかったという言い訳が行間から感じられる。そして、我々はこの文章が生き残った者たちにより書かれたことを忘れてはならない。特攻隊員の心情は限りなく悲しく、限りなく美しいことは誰もが否定しないだろう。私もそう思う。しかし、時に「特攻」を美化する表現があることには注意を払う必要を感じる。
 多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが、戦後は復興が重要と約束を反故にし、守ったのは大西と宇垣などわずかであったことを知る人は少ない。現地案内板の中に登場する第6航空軍司令官菅原道大中将もその一人だ。終戦を受けて、自分も出撃すると言って特攻を送り出していた菅原道大は、部下鈴木京大佐から「一機用意しました。お供します。」と言われたが、「死ぬばかりが責任を果たすことにはならない。それより後始末をする方がいい。」と言って帰還した。贖罪の意味もあるのだろうか、菅原道大は特攻平和観音奉賛会を設立し、戦死者の慰霊顕彰に尽力している。菅原道大の三男の菅原道煕は特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会理事長を務めている。
 知覧特攻平和観音は当時の航空総軍司令官河辺正三大将、第6航空軍司令官菅原道大中将の二人が知覧に祀ったという。そして、この観音像は法隆寺の夢殿に奉安してある秘仏「夢ちがい観音像」を特別の許しを受けて謹鋳し、体内には特攻勇士の芳名を謹記した巻物が奉蔵されているという。仏像は供養の為に造られることがあるが、この「夢ちがい観音像」は一説には祟り鎮めの仏像ではないかとも言われている。無念の思いを残して死んでいった霊の祟りは鎮めなければ、残された者は安らかには暮らせない。祟りは祟る者よりも祟られる者に問題がある。祟られる者は心のどこかに疚しさを持っている。

 特攻部隊には操縦が容易な機体である九七式戦闘機などの旧式機が主に配備された。同作戦に参加した振武隊員1,276名のうち、航空機の故障などの理由によって帰投した605名は福岡県の振武寮(福岡女学院女子寮)に収容され、その存在は秘匿された。特攻隊員の生き残りは、その後、本土決戦のための特攻要員として全国に配備された。この時期、日本の工業生産力はすでに限界に達していて、航空機の品質管理が十分ではなかった事や、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかったという。振武隊員1,276名のうち約半数の605名が帰投したことの意味は大きい。
 機体故障などでやむをえず引き返した特攻員を振武寮に隔離し片っ端から「おめおめ帰ってきおって!貴様たちそんなに命が惜しいのか!」とリンチしたことで知られる第6航空軍参謀 倉澤清忠少佐は死の直前まで拳銃と軍刀を手放せず、特攻隊員や遺族からの報復に怯えながら2003年死の床についた。命が惜しかったのは倉澤清忠少佐の方だったとはぶざまだ。

 特攻作戦については陸軍でも海軍でも上層部で1944年には検討されていた。しかし、反対論もあった。1944年3月28日航空本部に特攻反対意見が多かったことから東條英機は航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭し後宮淳大将を後任に据えた。その後、特攻に向けて進んだようだ。
 飛行第62戦隊隊長石橋輝志少佐は、大本営作戦課から第62戦隊を特攻部隊に編成訓練するよう要請されると「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死したくない。」と拒否した。石橋はその日のうちに罷免された。この後、第62戦隊は特攻専用機に改造された四式重爆撃機を装備して特攻攻撃に借り出されている。
 第203海軍航空隊戦闘第303飛行隊長岡嶋清熊少佐は国賊と言われても特攻に反対し自らの部隊からは特攻隊を出さなかった。
 第343海軍航空隊に第五航空艦隊から特攻要請があった際、飛行長 志賀淑雄少佐は、行くならば計画した参謀を連れて上のものから行くべきと意見し、司令がそれに賛同し上申して以降343空には特攻の話がこなくなった。
 陸軍でも特攻の要請を拒否した部隊も存在し、美濃部正少佐は夜間攻撃を大西瀧治郎中将へ説き、美濃部の部隊の特攻不参加が認められ最後まで特攻を出さなかった。また中央が練習機で特攻をやらせようとするとそれに強く反対した。
 その特攻に反対した美濃部正は「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない。」と語って、大西を擁護するような発言をしている。

 特攻隊員もすべてが勇ましく美しく散っていた訳ではなかったようだ。大刀洗陸軍飛行場に隣接した料亭経の娘は、黙々と酒を飲む組と、軍指導部を批判して荒れる組の二種類に分かれ、憲兵ですら手が出せず、朝まで酒を飲んで出撃していったと証言している。
 また、角田和男少尉によれば特攻出撃前日の昼間に喜び勇んで笑顔まで見せていた特攻隊員たちが、夜になると一転して無表情のまま宿舎のベッドの上でじっと座り続けている光景を目の当たりにし、部下に理由を尋ねたところ、「目をつぶると恐怖から雑念がわいて来るため、本当に眠くなるまであのようにしている。しかし朝が来ればまた昼間のように明るく朗らかな表情に戻る。」と聞かされ、どちらが彼らの素顔なのか分からなくなり割り切れない気持ちになったという。

 特攻作戦は海軍から始まった。1943年7月ごろ城英一郎が「特殊航空隊の編成に就いて」を作成した。マリアナ沖海戦敗北によって、城英一郎少将、岡村基春大佐、大田正一少尉などから特攻に関する要望が中央に対して行われた。
 本格的に特攻作戦が推進されたのは、1944年10月5日 大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に内定した頃からだ。この人事は特攻開始を希望する大西の意見を認めたものとも言われる。フィリピンに着任した大西は、神風特別攻撃隊を編成した。初めの特攻隊員は立前は志願者を募った。ただ、特攻第一号の隊長関行男大尉は海軍兵学校出身者という条件で上官が指名したものであった。関は「一晩考えさせてください」と即答を避け、翌朝受けると返事をしたという。報道官に関は「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語ったという。
 1944年10月25日、神風特別攻撃隊はアメリカの護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げた。これを大本営は大々的に発表し、関は軍神として祀り上げられることとなった。戦果をあげれば陸軍も続いてくるだろうと考えた大西の考えは当たった。しかし、最初こそ戦果をあげたが、この体当たり攻撃にショックをうけたアメリカ軍の対応も早く、その後の特攻は被害の割には相手に損傷を与えることができなくなった。多くの特攻機が敵艦へ辿りつく前に敵機の迎撃を受け墜落した。最終段階では未熟なパイロットがレーダーを避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなくなり墜落するケースもあり、運良く辿り着けても操縦不能で敵艦に命中できなかったことが多かったようだ。つまり、石橋輝志少佐が言った「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死したくない」が現実になっていた。南方の島で亡くなった多くの兵士が戦死したのではなく飢え死にした事実があるように、ここでも尊い若者の命が犬死といういたたまれない表現で片付けられねばならぬ事態が起こっていたのである。
( 関連記事 旅61 明徳寺 ) 
 関行男大尉が報道官に語った「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」の言葉も注目される。後に大倉巌陸軍少尉機は親戚の女性(許嫁)を同乗させ、谷藤徹夫陸軍少尉は自機に新妻を乗せて特攻した。映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』の撮影に使用された、一式戦闘機「隼」III型甲の実寸大精巧レプリカがあったが、この映画は2007年公開作品だという。戦争映画は好きではないが、この映画の題名から何となく観たくなった。

画像

 門柱の由来が書いてあった。
『 この門柱は、昭和16年12月この地に開校された、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所(のちに教育隊となった)の正門です。
 終戦後昭和26年、旧知覧中学校の正門として使用されていたが、昭和56年統合により閉校になったのでここに移設復元したものです。 』

 本格的な特攻作戦は、陸海軍共同で1945年4月6日第1次総攻撃として始まり、7月19日第11次総攻撃の終了まで続いた。特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃しているが、知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃している。しかし、特攻基地となるまでは大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として若者が青春を過ごした場所であったことも忘れてはならない。この門柱はそのことを語っているようだ。

 知覧特攻基地から飛び立った439名の特攻兵士のほとんどは学徒兵である特別操縦見習士官か、予科練の修了者であったという。わずか1年半の飛行訓練で実戦に参加した。最終的には教育期間は更に短縮されたという。1945年の時点では熟練パイロットが少なく、若い未熟なパイロットが特攻を任された。軍は特攻機で敵艦にぶつかるだけなら短期の訓練で充分だと考えたのだろうか。もはやお金と時間をかけて優秀なパイロットを育てる余裕はなかったのだろう。何れにしても職業軍人からみれば予科練や学徒兵の命は消耗品のように軽い存在だったように思えてならない。そして彼ら(職業軍人)は生き残っている。

 「特攻」を考えるとき、それを推進した大西瀧治郎中将が槍玉に挙げられるが、彼の方針を許可した軍の上層部がいたことを忘れてはならない。大西瀧治郎中将は8月16日に、死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すること、後輩らに軽挙は利敵行為と思い自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、平時に特攻精神を堅持し日本民族と世界平和に尽くしてほしいという希望を遺書に残して割腹自決した。自決したからと言って彼の過ちの責任を取ったことにはならないが、彼の中でのけじめの付け方だったのだろう。同様に1945年8月15日終戦を迎え、菊水作戦の最高指揮官であった第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将は、玉音放送終了後8月15日夕刻、大分基地から艦上爆撃機・彗星43型に搭乗し、沖縄近海の米軍艦隊に突入、戦死した。
 終戦が近いころ、大西は「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」という二千万特攻論を唱えて豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を会議で訴えた。「我々で画策し奏上し終戦を考え直すようにしなければならない。全国民二千万人犠牲の覚悟を決めれば勝利は我々のもの」と主張した。また、内閣書記官長 迫水久常のもとにも現れ、手を取って「戦争を続けるための方法を何か見つけることはできませんか」と訴えたという。もはや彼の頭の中には組織(軍)の存続以外はなかったのかもしれない。それは大西だけではなく日本の軍部も同じだったのではないか。日本国民の運命より自分たちの権力の崩壊を恐れ、冷静な判断ができなかったのではないだろうか。冷静な判断をすれば沖縄の戦闘はほとんど勝ち目のない戦いであった。日本や日本国民の命よりも自分の属している組織(軍)が上位であるという発想抜きには、悪魔のような「特攻」を強制できない。組織(軍)存続のことより日本国民のことを考えれば、もう少し早く戦争を止めることができたはずだ。
 軍部にも分析能力が無かったわけではない。大西も留学経験があり、アメリカの経済力やアメリカ軍の実力を知っていたという。軍の上層部も早期の停戦を考えていたようだが、戦局が悪化して勝てる見込みが無くなったとき、少しでも有利な停戦条件を確保するため小さな勝ちが欲しかったようだ。そこで考案されたのが特攻作戦だった。圧倒的な物的戦闘力に勝るアメリカの進攻を阻止できないことが分かった時点でも、日本国民の生命財産よりも軍は自らのプライドにこだわった。軍政の不振の追及を恐れた。もはや日本軍は日本国民を守ってはいなかった。
 私は日本軍が冷静な判断を下し、あと半年早く戦争を止めていれば、知覧特攻基地からの出撃も東京大空襲(3月11日)も広島原爆投下(8月6日)も長崎原爆投下(8月9日)も回避できたのが残念でならない。他人はそれは結果論だと言うが、軍部が狙った少しでも有利な停戦条件が結べなかったことこそ結果論だろう。結局、日本は無条件降伏をしたのだから。やはり、判断を誤った軍部の責任は大きい。

 歴史は繰り返すという。人類は同じ間違いを繰り返している。それは間違いを犯し後悔して懲りた頃、寿命が尽き死んでいくからである。そして、次に生まれた人々が同じ間違いを犯す。同じ過ちを繰り返すのなら歴史を学ぶ必要など無い。歴史から何を学ぶかは大切なことだ。知覧平和公園の朝は清々しかった。その中で、生き残った職業軍人の語ることより、無念の思いを抱いて死んでいった兵士の声なき声や、徴兵されて悲惨な目にあったが運良く生きて復員された人々の声を聞くことの方が大事なことだと感じるひとときをすごした。
 お陰様で戦後日本は平和であった。現在、安倍政権下で憲法改正が叫ばれているが、我々は各セクトの言うことをよく聞き、自分の考えをしっかり持つ時期にさしかかってきたのではないか。

 陸軍の特攻部隊が多く飛び立ったのは、薩摩半島にあるここ知覧特攻基地だが、海軍の特攻部隊が多く飛び立ったのは大隅半島の鹿屋である。
  ( 関連記事 旅164 鹿屋特攻隊慰霊塔 )
画像

 知覧の街の街路樹は変わっていた。知覧町は薩摩の小京都と呼ばれ、武家屋敷や情緒あふれる街並みなど見所があるという。今回は通り過ぎただけだが、また訪ねてみたい町だ。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック