旅96 籠神社(このじんじゃ)・真名井神社
2012年 4月27日 No.4
元伊勢 籠神社(このじんじゃ・こもりじんじゃ)
公式ホームページでは由緒や祭神について、次のように記されている。
『 神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を吉佐宮(よさのみや)と申して一緒にお祭り致しました。
その後天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。
両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました。
主神 彦火明命(ひこほあかりのみこと)
亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。又別の古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に又大汝命の御子であると云い、一に丹波道主王とも云う。
相殿
・豊受大神(とようけのおおかみ)
・天照大神(あまてらすおおかみ)
豊受大神は御饌津神とも申され、天照大神は、あまねく萬物を化育される天日の徳のように、天下蒼生を火の徳、高い徳を以ってお恵みに なり、生命を活動させられ、皇室や日本民族の大祖神と仰がれ、御饌津神は天照大神が崇祭された大神である。
・海神(わたつみのかみ)
大元霊神の御徳を分掌せられて、航海の安全、漁業の満足等をお司どりになる。
・天水分神(あめのみくまりのかみ)
大元霊神の御徳を分掌せられて、水の徳を以って諸々の水利、水運、水道等をお司どりになる。奥宮相殿の罔象女命と共に神代以来最古の水神。 』
大きな「さざれ石」があった。
鎌倉時代作と云われる重文の狛犬
伝承によると、作者の魂の入った狛犬が、天正年間に不意に天橋立の松林に出現して、参拝者を驚かせた。たまたま親の仇討ちのためひそんでいた石見重太郎が、これを聞いて鎮霊を決意し、一夜待ち構えて音のする方向へ刀を一閃したところ、石の狛犬の前脚が切れて出現が止んだと云う。以来社前に還座して魔除けの霊験があらたかになったと云う。胴と脚がどっしりして、日本化された狛犬の傑作と云われる。
神明造の本殿高欄上に、「五色の座玉」という飾りがある。五行を示す、青(緑)・黄・赤・白・黒の五色。伊勢神宮御正殿と、当社のみに許されているものだという。
摂末社には以下のものがある。
恵美須彦火火出見命之社(彦火火出見命)、蛭子神社(彦火火出見命、倭宿彌命)、 天照皇大神社(天照大神の和魂あるいは荒魂)、真名井稲荷神社(宇迦御魂、保食神、豊受比売。 明治末期まで奥宮真名井神社に鎮座していたものを、1991年に本社境内に再建した)、春日大名神社(春日四神)、猿田彦神社(猿田彦神)
元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移り、豊受大神から4年間御饌物を受けていた。つまり、天照大神は4年間豊受大神の世話になっていたのだ。その後、天照大神は安住の地を求めて各地をさまよい、50余年後にようやく伊勢に鎮座した。後に雄略天皇の時代に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」というようになった。
養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座して主祭神を彦火明命とし、豊受・天照両神を相殿に祀り、社名を籠宮に改めた。豊受大神が移り主祭神の座が空いたので彦火明命を祀ったようだが、そうではない。719年と云えば記紀が成立する時期と重なる。中央からの圧力で記紀に合わせ祭神の改変などが行われた時期である。
公式ホームページの主祭神は「彦火明命、亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる」 とある。
“尚、彦火火出見命は養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる”とあることは、私は「 籠神社はよく頑張ったな」と評価したい。「彦火火出見命」と「彦火明命」は名前は似ているが、全く違う。記紀においては「彦火火出見命」は瓊々杵尊の子で山幸彦のことである。つまり、天孫であり中央の記紀編纂者側が祭神に入れたがった人物だ。若狭の若狭彦神社では中央の指示に従い(圧力に屈し)、若狭彦を彦火火出見尊とし、今日に至っている。
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籠神社の主祭神「彦火明命」は“彦火明命、亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり”とあるように「ニギハヤヒ」のことだ。『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といいアメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。また、『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の系)とし両者を別とする。
記紀ではアマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの持ち物から五人の男子が生成され、スサノオの持ち物から三人の女子が生まれた。五人の男子は物実の持ち主であるアマテラスの子とされ、三人の女子は物実の持ち主であるスサノオの子とされた。この事をどう解釈するかの定説はないが、一般的には三人の女子はアマテラスとスサノオの間の子だとされ、後の宗像三女神である。つまり、アマテラスの子供は五男三女の8人で、全国の八王子神社などは五男三女を祀っている。私がここで注目したいのは次男の天穂日命(アメノホヒ命)だ。アメノホヒは葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祀る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。私には天火明命(アメノホアカリ命)と天穂日命(アメノホヒ命)が重なる。記紀では由緒を古くするため、兄弟を親子として時代をのばす工夫をしているようだ。最近では日向四代は、天穂日命を除く残りの兄弟4人の出来事を4代にしてのばしたのではないかという説がある。いずれにしても記紀において日向族と出雲族の接点が太古からあることは認めている。
私はニギハヤヒは出雲系であり海人でもあると考えている者の一人だ。物部系の文書『先代旧事本紀』には、物部氏の祖を「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」と記し、その子どもには物部氏の祖となった宇摩志麻治命や尾張氏の祖になった天香語山命がいるとしている。
主祭神が豊受大神だった後を受け、新たな主祭神になったニギハヤヒ。当然、豊受大神とニギハヤヒは関係があると考えてよい。伊勢神宮の天照大神が丹後からわざわざ豊受大神を招いておきながら、その外宮の豊受大神を「日本書紀」が無視するように採り上げていない。ニギハヤヒも、記紀の中での取り扱いが少ない。記紀においては天孫系(日向系)は優越に描かれ、出雲系は引き立て役として語られることが多い。日向系の正当性を証するために出雲系の功績を矮小化しているのではないか。豊受大神もニギハヤヒも黙殺されたり無視されているように感じる。私がニギハヤヒを出雲系と考えるのはそこにある。
社宝として籠名神社祝部氏係図(海部氏系図)がある。1976年国宝指定。社家である海部氏の系図で、平安時代初期に書写された、日本最古の現存する系図である。社家の海部氏は、彦火明命を祖とし、大化改新以前は丹波国造であったが、その後祝部となり創建以来代々奉斎をしてきたとされ、現在は82代目である。
他の社宝として海部直伝世鏡 、息津鏡・辺津鏡 がある。息津鏡は約1950年前の後漢代の作で直径175mm、辺津鏡は約2050年前の前漢代の作で直径95mm。出土品でない伝世鏡としては日本最古である。鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致するが、関係は不明。神社の伝承では饒速日命が天津神から賜ったものである。
崇神天皇の時、天皇が畏怖して宮廷に祀られていた天照大神は外に出ることになった。この時、天照大神だけでなく日本大国魂神も外に出ることになった。日本大国魂神は大物主大神のことである。天照大神に比べて日本大国魂神は短い間に鎮座地が決まった。しかも、大和の中に3箇所。大神神社、大和神社、石神神宮である。この人気の違いは何だろう。当時、大和においては大物主大神は大和の基礎を築いた大王、天照大神は遠い九州の女王という認識だったと考えていい。その時、十種神宝も宮廷から持ち出され石神神宮に納められたことになっているが、このうちの2つが籠神社に伝わっているとしたら驚きだ。だが、あり得ないことではない。なぜなら石神神宮の祭祀を司っているのは海部氏と同様ニギハヤヒに繋がる物部氏だからである。
海部宮司4代目の倭宿禰命は、神武東征の際に速吸門(明石海峡)で亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導した。その功により神武天皇から倭宿禰命の称号を賜る。[別名 珍彦(うづひこ)・椎根津彦・神知津彦] 亀に乗った姿は応神朝の海部の賜姓以前、海人族の原始の一面を語り、又海氏と天系との同一出自をも示唆するようである。
丹後の国が丹波の国から分かれておかれたのが和銅6年(713年)である。籠神社が鎮座する場所は宮津市大垣だが、ここは旧府中村である。府中であるから国府が置かれたところだ。丹後国総社は不詳であるが、当社が総社を兼ねていたとする説もある。総社となれば祀る祭神も増える。今は先祖を主祭神にしているが、以前は祭神について異説が多く不詳とされた時期もあった。伊弉諾尊が真名井原(奥宮)へ天降るために作った梯子が、倒れて天橋立となったという伝承から、伊弉諾尊が祭神なっていたこともある。籠神社の名前の由来は、祭神が籠に乗って雪の中に現れたから「籠宮」という社名になったという伝承による。「籠」から竹冠をとれば、「龍」になる。「籠宮」は「龍宮」(竜宮)に繋がるのではないか。
丹後は多くの伝承に彩られている。大江山の鬼退治などがあるが、この籠神社にも天の羽衣伝説がある。比治の真名井で水浴び(沐浴)をしていた8人の天女のひとりが、枝にかけておいた羽衣を老翁に奪われて天に帰れなくなった。老翁に「子どもがいないので残って欲しい」と頼まれ、やむなく地上界に留まることになった。万病に効く薬を作っては老翁の家を豊にした天女だったが、慢心した老翁に裏切られ各地を放浪することになった。奈具の村に行き着き、ようやく心が落ち着いたという。そしてこの天女が、豊宇賀能売命だったといい、これが豊受大神である。異説では羽衣を盗んだ老翁は塩土老翁で、両者は夫婦になったという。塩土老翁と云えば、山幸彦を海神宮に導いたり神武天皇を大和に誘ったりした人物だ。特に山幸彦を海神宮に導く時には「無目籠」(水の入る隙間もないほどに固く編んだ籠)に乗せている。そして塩土老翁は住吉神社の祭神だという。もう一つの伝承に豊受大神が籠に乗って光っていたというものがある。竹はその生長の速さから神霊があるとされ竹で編んだ籠は「呪具」として使われた。竹が神聖だったから、のちに竹細工に関わる人々が、いわれのない差別を受けることがあった。「竹取物語」ではかぐや姫は竹籠で養育された。尾張氏の祖になった天香語山命の香語山は「籠山」であるともいわれる。そして海部氏も住吉大社の神官の津守氏も尾張氏と同族だ。浦島太郎伝説も丹後半島で生まれている。浦島太郎は「日本書紀」「古事記」「万葉集」「風土記」で、もれなく採り上げられ実在の人物とされている。浦島は「水の江の浦の島子」と呼ばれ、故郷は「墨吉」(すみのえ)だったと記されている。「墨吉」は「住吉」のこととされ玉手箱を開けた浦島は三百歳の老人となり、塩土老翁の老人のイメージと重なる。浦島太郎は亀に乗って竜宮城へ行っている。万葉集の浦島太郎伝説は長歌になっていて、最後には反歌が載せられている。「常世辺に住むべきものを剣刀己が心から鈍やこの君」、その意味は「あちらに行ったまま住んでいれば良かったのに、なぜ戻ってきてしまったのだろう。本当にこの男は間抜けだ」と云うことだという。これが何を意味しているのかははっきりしないが、浦島太郎のモデルが丹後にいて有名人だったことは確かだ。
真名井神社 (籠神社の奥宮)
籠神社の北東約400mの所に、当社の元の鎮座地である奥宮・真名井神社(まないじんじゃ)がある。
狛犬ならぬ狛龍
真名井という社名は、境内に「真名井の水」という神水が涌き出ていることによる。
本殿はなく、拝殿の裏に2つの磐座がある。右の磐座主座は豊受大神を主祭神とし、相殿に罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神を祀る。左の磐座西座は天照大神を主祭神とし伊射奈岐大神・伊射奈美大神を配祀する。「主祭神の豊受大神は亦名 天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、五穀農耕の祖神であり、開運厄除、衣食住守護、諸業繁栄を司どられ、水の徳顕著で生命を守られる。」とあるが、これは度会神道の考え方が入っているようだ。その他の磐にも、いろいろな神が祀られていた。
この石碑は、伝聞によると地中に埋まっていたものを有志が掘り起こして新しくしたものだそうだ。真名井神社の由緒が彫られているが、建立当初は上部に籠目紋(六芒星)が刻まれていた。一説によるとこれは籠神社の裏神紋らしく、絵馬にもつかわれている。籠目紋は「ダビデの星」とも呼ばれ、イスラエルの国旗にも描かれているマークだ。単なる籠に関係あるための籠目紋だろう。しかし、世間では勘ぐって憶測する人がいるため、誤解を避けるためいつの間にか籠神社神紋である三つ巴紋に変更されたという。 「かごめ かごめ」の歌もあることだし、賢明な処置だったかもしれない。 しかし、「……後ろの正面だあ~れ」は暗示的だ。古い寺院で本尊とされる仏像の後ろに背中合わせで別の仏像が祀られていることがある。そして、後ろの正面の仏像が本来の本尊だとされる。
籠神社と真名井神社の間を流れる川 真名井川か?
籠神社境内には経塚があり、文治4年(1188)銘の銅製経筒二口と鏡二面が出土して国の重要文化財に指定されている。また真名井神社の付近から、弥生時代の石斧と古墳時代の土師器、滑石製品などの祭祀遺物が出土している。自然の巨岩からなる磐座があり、天橋立の伝説ともからみ古代人の自然にたいする祭祀を垣間みるようで興味深い。貼石墓が出土した難波野遺跡もあり、遅くとも弥生後期にはすでに真名井神社は祭祀されていたと考えられる。
真名井神社は、籠神社の奥宮とされるが、更に籠神社には奥宮があり、籠神社の祭神も真名井神社の祭神も、実はこの奥宮から渡ってきたという。
その奥宮があるのは若狭湾内にある冠島と沓島にあるという。
冠島と沓島は小さな無人島で、希少種のオオミズキドリの生息地であるということで上陸禁止となっている。(一部の地元民が年に数回上陸ができるだけ)
冠島(大島)には老人嶋神社(おいとしまじんじゃ)があり天火明神を祀り、沓島(小島)には日子郎女神(市寸島比売神)が祀られているという。
冠島は元はもっと大きな島だったという。701年に丹後で起こった大宝地震で山頂部を残し海に沈んだことが、「丹後風土記残欠」には記録されているそうだ。
この島周囲の海底からは人工的な階段を持った石造構造物が発見されている。

つまり、地震により籠神社や真名井神社がこれらの島から移ってきたとも考えられる。
そして、これは日御碕神社のある日御碕沖の“海底遺跡”とも繋がるものかもしれない。
冠島は海没した凡海郷の残骸とされ、丹後国一の宮の籠神社の主祭神の彦火明命(天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)が降臨した地と考えられている。何れにしても冠島・沓島は古くから信仰の対象であったようで、傘松公園に遙拝所もあるそうだ。
元伊勢 籠神社(このじんじゃ・こもりじんじゃ)
公式ホームページでは由緒や祭神について、次のように記されている。
『 神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を吉佐宮(よさのみや)と申して一緒にお祭り致しました。
その後天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。
両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました。
主神 彦火明命(ひこほあかりのみこと)
亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。又別の古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に又大汝命の御子であると云い、一に丹波道主王とも云う。
相殿
・豊受大神(とようけのおおかみ)
・天照大神(あまてらすおおかみ)
豊受大神は御饌津神とも申され、天照大神は、あまねく萬物を化育される天日の徳のように、天下蒼生を火の徳、高い徳を以ってお恵みに なり、生命を活動させられ、皇室や日本民族の大祖神と仰がれ、御饌津神は天照大神が崇祭された大神である。
・海神(わたつみのかみ)
大元霊神の御徳を分掌せられて、航海の安全、漁業の満足等をお司どりになる。
・天水分神(あめのみくまりのかみ)
大元霊神の御徳を分掌せられて、水の徳を以って諸々の水利、水運、水道等をお司どりになる。奥宮相殿の罔象女命と共に神代以来最古の水神。 』
大きな「さざれ石」があった。
鎌倉時代作と云われる重文の狛犬
伝承によると、作者の魂の入った狛犬が、天正年間に不意に天橋立の松林に出現して、参拝者を驚かせた。たまたま親の仇討ちのためひそんでいた石見重太郎が、これを聞いて鎮霊を決意し、一夜待ち構えて音のする方向へ刀を一閃したところ、石の狛犬の前脚が切れて出現が止んだと云う。以来社前に還座して魔除けの霊験があらたかになったと云う。胴と脚がどっしりして、日本化された狛犬の傑作と云われる。
神明造の本殿高欄上に、「五色の座玉」という飾りがある。五行を示す、青(緑)・黄・赤・白・黒の五色。伊勢神宮御正殿と、当社のみに許されているものだという。
摂末社には以下のものがある。
恵美須彦火火出見命之社(彦火火出見命)、蛭子神社(彦火火出見命、倭宿彌命)、 天照皇大神社(天照大神の和魂あるいは荒魂)、真名井稲荷神社(宇迦御魂、保食神、豊受比売。 明治末期まで奥宮真名井神社に鎮座していたものを、1991年に本社境内に再建した)、春日大名神社(春日四神)、猿田彦神社(猿田彦神)
元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移り、豊受大神から4年間御饌物を受けていた。つまり、天照大神は4年間豊受大神の世話になっていたのだ。その後、天照大神は安住の地を求めて各地をさまよい、50余年後にようやく伊勢に鎮座した。後に雄略天皇の時代に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」というようになった。
養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座して主祭神を彦火明命とし、豊受・天照両神を相殿に祀り、社名を籠宮に改めた。豊受大神が移り主祭神の座が空いたので彦火明命を祀ったようだが、そうではない。719年と云えば記紀が成立する時期と重なる。中央からの圧力で記紀に合わせ祭神の改変などが行われた時期である。
公式ホームページの主祭神は「彦火明命、亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる」 とある。
“尚、彦火火出見命は養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる”とあることは、私は「 籠神社はよく頑張ったな」と評価したい。「彦火火出見命」と「彦火明命」は名前は似ているが、全く違う。記紀においては「彦火火出見命」は瓊々杵尊の子で山幸彦のことである。つまり、天孫であり中央の記紀編纂者側が祭神に入れたがった人物だ。若狭の若狭彦神社では中央の指示に従い(圧力に屈し)、若狭彦を彦火火出見尊とし、今日に至っている。
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籠神社の主祭神「彦火明命」は“彦火明命、亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり”とあるように「ニギハヤヒ」のことだ。『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といいアメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。また、『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の系)とし両者を別とする。
記紀ではアマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの持ち物から五人の男子が生成され、スサノオの持ち物から三人の女子が生まれた。五人の男子は物実の持ち主であるアマテラスの子とされ、三人の女子は物実の持ち主であるスサノオの子とされた。この事をどう解釈するかの定説はないが、一般的には三人の女子はアマテラスとスサノオの間の子だとされ、後の宗像三女神である。つまり、アマテラスの子供は五男三女の8人で、全国の八王子神社などは五男三女を祀っている。私がここで注目したいのは次男の天穂日命(アメノホヒ命)だ。アメノホヒは葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祀る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。私には天火明命(アメノホアカリ命)と天穂日命(アメノホヒ命)が重なる。記紀では由緒を古くするため、兄弟を親子として時代をのばす工夫をしているようだ。最近では日向四代は、天穂日命を除く残りの兄弟4人の出来事を4代にしてのばしたのではないかという説がある。いずれにしても記紀において日向族と出雲族の接点が太古からあることは認めている。
私はニギハヤヒは出雲系であり海人でもあると考えている者の一人だ。物部系の文書『先代旧事本紀』には、物部氏の祖を「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」と記し、その子どもには物部氏の祖となった宇摩志麻治命や尾張氏の祖になった天香語山命がいるとしている。
主祭神が豊受大神だった後を受け、新たな主祭神になったニギハヤヒ。当然、豊受大神とニギハヤヒは関係があると考えてよい。伊勢神宮の天照大神が丹後からわざわざ豊受大神を招いておきながら、その外宮の豊受大神を「日本書紀」が無視するように採り上げていない。ニギハヤヒも、記紀の中での取り扱いが少ない。記紀においては天孫系(日向系)は優越に描かれ、出雲系は引き立て役として語られることが多い。日向系の正当性を証するために出雲系の功績を矮小化しているのではないか。豊受大神もニギハヤヒも黙殺されたり無視されているように感じる。私がニギハヤヒを出雲系と考えるのはそこにある。
社宝として籠名神社祝部氏係図(海部氏系図)がある。1976年国宝指定。社家である海部氏の系図で、平安時代初期に書写された、日本最古の現存する系図である。社家の海部氏は、彦火明命を祖とし、大化改新以前は丹波国造であったが、その後祝部となり創建以来代々奉斎をしてきたとされ、現在は82代目である。
他の社宝として海部直伝世鏡 、息津鏡・辺津鏡 がある。息津鏡は約1950年前の後漢代の作で直径175mm、辺津鏡は約2050年前の前漢代の作で直径95mm。出土品でない伝世鏡としては日本最古である。鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致するが、関係は不明。神社の伝承では饒速日命が天津神から賜ったものである。
崇神天皇の時、天皇が畏怖して宮廷に祀られていた天照大神は外に出ることになった。この時、天照大神だけでなく日本大国魂神も外に出ることになった。日本大国魂神は大物主大神のことである。天照大神に比べて日本大国魂神は短い間に鎮座地が決まった。しかも、大和の中に3箇所。大神神社、大和神社、石神神宮である。この人気の違いは何だろう。当時、大和においては大物主大神は大和の基礎を築いた大王、天照大神は遠い九州の女王という認識だったと考えていい。その時、十種神宝も宮廷から持ち出され石神神宮に納められたことになっているが、このうちの2つが籠神社に伝わっているとしたら驚きだ。だが、あり得ないことではない。なぜなら石神神宮の祭祀を司っているのは海部氏と同様ニギハヤヒに繋がる物部氏だからである。
海部宮司4代目の倭宿禰命は、神武東征の際に速吸門(明石海峡)で亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導した。その功により神武天皇から倭宿禰命の称号を賜る。[別名 珍彦(うづひこ)・椎根津彦・神知津彦] 亀に乗った姿は応神朝の海部の賜姓以前、海人族の原始の一面を語り、又海氏と天系との同一出自をも示唆するようである。
丹後の国が丹波の国から分かれておかれたのが和銅6年(713年)である。籠神社が鎮座する場所は宮津市大垣だが、ここは旧府中村である。府中であるから国府が置かれたところだ。丹後国総社は不詳であるが、当社が総社を兼ねていたとする説もある。総社となれば祀る祭神も増える。今は先祖を主祭神にしているが、以前は祭神について異説が多く不詳とされた時期もあった。伊弉諾尊が真名井原(奥宮)へ天降るために作った梯子が、倒れて天橋立となったという伝承から、伊弉諾尊が祭神なっていたこともある。籠神社の名前の由来は、祭神が籠に乗って雪の中に現れたから「籠宮」という社名になったという伝承による。「籠」から竹冠をとれば、「龍」になる。「籠宮」は「龍宮」(竜宮)に繋がるのではないか。
丹後は多くの伝承に彩られている。大江山の鬼退治などがあるが、この籠神社にも天の羽衣伝説がある。比治の真名井で水浴び(沐浴)をしていた8人の天女のひとりが、枝にかけておいた羽衣を老翁に奪われて天に帰れなくなった。老翁に「子どもがいないので残って欲しい」と頼まれ、やむなく地上界に留まることになった。万病に効く薬を作っては老翁の家を豊にした天女だったが、慢心した老翁に裏切られ各地を放浪することになった。奈具の村に行き着き、ようやく心が落ち着いたという。そしてこの天女が、豊宇賀能売命だったといい、これが豊受大神である。異説では羽衣を盗んだ老翁は塩土老翁で、両者は夫婦になったという。塩土老翁と云えば、山幸彦を海神宮に導いたり神武天皇を大和に誘ったりした人物だ。特に山幸彦を海神宮に導く時には「無目籠」(水の入る隙間もないほどに固く編んだ籠)に乗せている。そして塩土老翁は住吉神社の祭神だという。もう一つの伝承に豊受大神が籠に乗って光っていたというものがある。竹はその生長の速さから神霊があるとされ竹で編んだ籠は「呪具」として使われた。竹が神聖だったから、のちに竹細工に関わる人々が、いわれのない差別を受けることがあった。「竹取物語」ではかぐや姫は竹籠で養育された。尾張氏の祖になった天香語山命の香語山は「籠山」であるともいわれる。そして海部氏も住吉大社の神官の津守氏も尾張氏と同族だ。浦島太郎伝説も丹後半島で生まれている。浦島太郎は「日本書紀」「古事記」「万葉集」「風土記」で、もれなく採り上げられ実在の人物とされている。浦島は「水の江の浦の島子」と呼ばれ、故郷は「墨吉」(すみのえ)だったと記されている。「墨吉」は「住吉」のこととされ玉手箱を開けた浦島は三百歳の老人となり、塩土老翁の老人のイメージと重なる。浦島太郎は亀に乗って竜宮城へ行っている。万葉集の浦島太郎伝説は長歌になっていて、最後には反歌が載せられている。「常世辺に住むべきものを剣刀己が心から鈍やこの君」、その意味は「あちらに行ったまま住んでいれば良かったのに、なぜ戻ってきてしまったのだろう。本当にこの男は間抜けだ」と云うことだという。これが何を意味しているのかははっきりしないが、浦島太郎のモデルが丹後にいて有名人だったことは確かだ。
真名井神社 (籠神社の奥宮)
籠神社の北東約400mの所に、当社の元の鎮座地である奥宮・真名井神社(まないじんじゃ)がある。
狛犬ならぬ狛龍
真名井という社名は、境内に「真名井の水」という神水が涌き出ていることによる。
本殿はなく、拝殿の裏に2つの磐座がある。右の磐座主座は豊受大神を主祭神とし、相殿に罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神を祀る。左の磐座西座は天照大神を主祭神とし伊射奈岐大神・伊射奈美大神を配祀する。「主祭神の豊受大神は亦名 天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、五穀農耕の祖神であり、開運厄除、衣食住守護、諸業繁栄を司どられ、水の徳顕著で生命を守られる。」とあるが、これは度会神道の考え方が入っているようだ。その他の磐にも、いろいろな神が祀られていた。
この石碑は、伝聞によると地中に埋まっていたものを有志が掘り起こして新しくしたものだそうだ。真名井神社の由緒が彫られているが、建立当初は上部に籠目紋(六芒星)が刻まれていた。一説によるとこれは籠神社の裏神紋らしく、絵馬にもつかわれている。籠目紋は「ダビデの星」とも呼ばれ、イスラエルの国旗にも描かれているマークだ。単なる籠に関係あるための籠目紋だろう。しかし、世間では勘ぐって憶測する人がいるため、誤解を避けるためいつの間にか籠神社神紋である三つ巴紋に変更されたという。 「かごめ かごめ」の歌もあることだし、賢明な処置だったかもしれない。 しかし、「……後ろの正面だあ~れ」は暗示的だ。古い寺院で本尊とされる仏像の後ろに背中合わせで別の仏像が祀られていることがある。そして、後ろの正面の仏像が本来の本尊だとされる。
籠神社と真名井神社の間を流れる川 真名井川か?
籠神社境内には経塚があり、文治4年(1188)銘の銅製経筒二口と鏡二面が出土して国の重要文化財に指定されている。また真名井神社の付近から、弥生時代の石斧と古墳時代の土師器、滑石製品などの祭祀遺物が出土している。自然の巨岩からなる磐座があり、天橋立の伝説ともからみ古代人の自然にたいする祭祀を垣間みるようで興味深い。貼石墓が出土した難波野遺跡もあり、遅くとも弥生後期にはすでに真名井神社は祭祀されていたと考えられる。
真名井神社は、籠神社の奥宮とされるが、更に籠神社には奥宮があり、籠神社の祭神も真名井神社の祭神も、実はこの奥宮から渡ってきたという。
その奥宮があるのは若狭湾内にある冠島と沓島にあるという。
冠島と沓島は小さな無人島で、希少種のオオミズキドリの生息地であるということで上陸禁止となっている。(一部の地元民が年に数回上陸ができるだけ)
冠島(大島)には老人嶋神社(おいとしまじんじゃ)があり天火明神を祀り、沓島(小島)には日子郎女神(市寸島比売神)が祀られているという。
冠島は元はもっと大きな島だったという。701年に丹後で起こった大宝地震で山頂部を残し海に沈んだことが、「丹後風土記残欠」には記録されているそうだ。
この島周囲の海底からは人工的な階段を持った石造構造物が発見されている。

つまり、地震により籠神社や真名井神社がこれらの島から移ってきたとも考えられる。
そして、これは日御碕神社のある日御碕沖の“海底遺跡”とも繋がるものかもしれない。
冠島は海没した凡海郷の残骸とされ、丹後国一の宮の籠神社の主祭神の彦火明命(天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)が降臨した地と考えられている。何れにしても冠島・沓島は古くから信仰の対象であったようで、傘松公園に遙拝所もあるそうだ。
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