旅65. 横須賀 No.1
2011年11月中旬 No.1
前の職場から依頼されて、仕事をすることになった。世の中の流れは早いし、半年余り自由な生活をしてきたので不安が無いわけではない。体は動かしていたので大丈夫だと思うが、即戦力を期待される中で心と頭が即座に適応できるか心配だ。3ヶ月足らずの期間でフルタイムでないので引き受けた。何よりお世話になった職場から、まだあてにして頂いたことが嬉しかったのと、微力ながら恩返しができたらと殊勝なことを考えた。
遠くへの長い旅は、しばらく出来ない。ちょうど寒くなることもあり充電期間に充てたい。しかし、この間に鎌倉を含めた三浦半島を回ってみたい。三浦半島に住むようになって何十年にもなり2回の引っ越しを経験したが、家と職場の往復で点と線だけの広がりしかない。地元との繋がりもないし、未だによそ者感覚でいることは否めない。この期間を通して、少しでも点と線を広げて面にしてみたい。
臨海公園(ヴェルニー公園)
昭和21年に旧軍港の一部が公園として市民に開放された。公園の中には横須賀開港の恩人としてフランソワ・レオンス・ヴェルニーと小栗上野介忠順の胸像がある。ヴェルニー公園は「歴史と海とバラの公園」だという。デモの集合場所として何度も行ったが、ゆっくり公園内を散策したことはなかった。
フランソワ・レオンス・ヴェルニーはフランスの造船技師で、海軍増強をめざした徳川幕府の要請により横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として1865年に来日した。明治維新後も引き続きその建設と運営の任にあたり、観音崎灯台や走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍して1876年帰国した。
小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけ ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣。1860年日米修好通商条約批准の遣米使節に加わり、ヨーロッパを廻って帰国した小栗は改革派の代表格になり、保守派の圧力で辞任・罷免を繰り返しながらも、慶応2年には勘定奉行、海軍奉行、陸軍奉行を一手に兼任していた。
小栗はフランスからの借款で横須賀製鉄所建設や西洋式軍隊の訓練を推進した。横須賀造船所の建設においては、相当な費用の負担を幕府に強いることになると、幕府内部からも反対論が根強く、建設地を横須賀にすることへの反対論も強かったという。
徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)、罷免されて領地である上野国(群馬県)群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)に隠遁。東善寺を住まいとし学問塾での指導や水田整備、用水路建設に従事して日々を送った。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して、武装解除に応じ、敵意の無いことを示したが逮捕され、翌日取り調べもされぬまま烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)で家臣3名と共に斬首された。享年42。死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放つ。それが最後の言葉と言われている。
戦後になり明治政府中心の歴史観が薄まると小栗忠順の評価は見直された。作家司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した。しかし、戦前から小栗を知る人々は小栗を高く評価していた。
大隈重信は後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言した。これは大隈の夫人が小栗の遠縁にあたることを考えると過大評価とも言えなくはない。いずれにしても、横須賀製鉄所がその後の海軍工廠の基礎となったように、蕃書調所・開成所、長崎海軍伝習所など幕府諸機関で知識・技術・技能を習得した幕臣・諸藩士、幕府の援助で既に留学していた技術官僚たちの働きを抜きに明治政府の文明開化政策は実現できなかった。
その代表者として様々な構想をもっていた小栗は賞賛に値するだろう。日露戦争の英雄東郷平八郎は、明治45年(1912年)7月、自宅に小栗家の家督を継いだ人を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」とし丁重に礼を述べたあと、「仁義禮智信」と書を認め、これを贈ったという。
小栗上野介忠順が斬首された上野国(群馬県)群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)の烏川の水沼河原の石。昭和28年にこの公園で行われた開港祭を機会に倉渕村から寄贈された。
公園の中には横須賀開港の恩人としてフランソワ・レオンス・ヴェルニーと小栗上野介忠順の二人の胸像があるにも関わらず、公園の名前は「ヴェルニー公園」とは片手落ちだと感じるのは私だけだろうか。「小栗、ヴェルニー公園」でもいいのではないか。ヴェルニーが日本のために尽力したことには感謝するが、大体、彼は小栗上野介忠順とフランス公使レオン・ロッシュが推薦した造船技師だ。1865年に29歳で来日し、1876年帰国した。12年間の滞在期間中に幕府は倒れ明治政府に引き継がれた。彼がリクルートしたフランス海軍技術者は全部で45家族だったという。外国人技術者の報酬はかなり高額だったようだ。
12年間で日本人だけで運営できるようにした彼の力量は評価できるが、「お雇い外人」の言葉があるようにビジネスライクだった部分も否めない。充分稼いだのかフランス帰国後、半年で現役を離れ、42歳でフランス最大の鉱山会社の取締役となっている。多分出資したのだろう。42歳で小栗は斬首され、42歳でヴェルニーは取締役となっている。
ヴェルニーに比べ「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」と言った小栗上野介忠順が、日本の発展を見ることができなかったのは残念だっただろう。この言葉は、「費用をかけて造船所を造っても成功する時分に、幕府はどうなっているかわからない」と言った幕臣鈴木兵庫頭(重嶺・佐渡奉行)に対して小栗上野介が語った言葉である。
また、明治になってからもフランス語が出来ることから日本側責任者となって現地を指揮した旧幕臣栗本鋤雲(じょうん)は、明治中ごろに当時を思い出し「小栗は、これが出来上がれば、土蔵付き売家の栄誉が残せる、と笑った」と書いている。母屋(政権)が売りに出てもこの土蔵(造船所)が新しい家主の役に立つ、ということで、明治維新の三年前、すでに幕府政治の行き詰まりを見通し、のちの時代のために造っていたことがわかる。栗本は「その場の冗談と思ったが、今彼の言った通りになっている。あの時の彼の心中を思うと、胸が痛む」と書いている。
小栗の領地は上野国にあったので小栗上野介を名乗った。吉良上野介以来、上野介の官途名は忌み嫌われ誰も付けなかった。それを敢えて名乗った小栗忠順に古いものを打ち破り新しい道を開拓する者の意気地を感じるのは私だけだろうか。ヴェルニーと小栗、二人とも横須賀開港の恩人であることには違いないのなら、小栗上野介忠順の名も冠する公園にしてもよかったのではないか。私は「Verny Park」そして別名「小栗臨海公園」と呼びたい。
いろいろな種類のバラが咲いていて、アマチュアカメラマンも撮影していた。ロイヤルファミリーのコーナーもあり、プリンセス・エリザベス、プリンセス・ダイアナ、プリンセス・ミチコなどのバラがあった。接写でプリンセス・アイコを撮ったがピントが真ん中に合ってしまい花はぼけてしまって残念だ。
「逸見波止場衛門」
旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰め所。左右2棟あり、左側には「逸見上陸場」、右側には「軍港逸見門」と表示されている。建築年代は、明治末から大正初期と思われる。
三笠公園
三笠公園へ行く公園通りに少女の彫刻があった。「出会い」という題だが、どこが出会いなのか分からない。作者は雨宮敬子さんでお父さんも弟さんも芸術院会員の芸術家一家だという。横須賀学院の前にあり、生徒たちは毎日見ているのだろう。「出会い」だからこの像の前を待ち合わせ場所にでもするのだろうか。私は忠犬ハチ公の前ならいいが、この像の前は遠慮したいと思った。
「めだかの学校」の作詩者、茶木滋さんは横須賀市汐入町の出身だという。めだかの学校の舞台は小田原市郊外の小川だそうだ。
三笠は、明治35年(1902年)建造されたイギリスのヴィッカース社製戦艦である。排水量15,140トン、全長122m、幅23m。日露戦争においては東郷平八郎司令長官が乗艦する連合艦隊の旗艦として大活躍した。特に、明治38年(1905)の日本海海戦では、ヨーロッパのバルト海から派遣されたロシアのバルチック艦隊を対馬沖で待ち構え、集中砲火を浴びながら勇敢に戦い、海戦史上例を見ない圧倒的な勝利に大きく貢献した。
この戦いに勝ったことにより、日本は独立と安全を維持し、国際的な地位を高め、また、世界の抑圧された諸国に自立の希望を与えた。ヴィクトリー号(英)、コンスティチューション号(米)と共に「世界三大記念艦」と云われている。大正15年(1926)以来ここに保存されていたが、太平洋戦争後は荒れ果てていた。昭和36年、有志によって復元整備された。
東郷平八郎
日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。
当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。これは日本海海戦において東郷がZ旗を掲げたことにもよると考える。東郷は海軍士官として1871年(明治4年)から1878年(明治11年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学している。当初ダートマスの王立海軍兵学校への留学を希望したがイギリス側の事情で許されず、商船学校のウースター協会で学ぶことになる。
日英同盟が1902年に調印されたが、その30年前はイギリスにおいて日本は極東の後進国という評価だったのだろう。Z旗が歴史上特別の意味を持って使われたのはトラファルガー海戦の時だという。1805年10月21日、スペインのトラファルガル岬で、イギリス艦隊とスペイン・フランス連合艦隊との間で行われたトラファルガー海戦の際、イギリス艦隊司令長官であったホレーショ・ネルソン提督が旗艦「ヴィクトリー」のマストに「英国は各人がその義務を尽くすことを期待する」という意味を持たせてZ旗を掲げ、味方兵士を鼓舞した。
これは"Z”がアルファベット最終文字である事から、「もうこれ以後は無い」という決戦の意思として用いた最初の例であるという。イギリス留学経験のある東郷は、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。奇しくもトラファルガー海戦から100年後のことだった。東郷が「東洋のネルソン」と呼ばれる所以でもある。
しかし、それまでの海戦で右目の視力と右腕を既に失っている隻眼・隻腕のネルソン提督はトラファルガー海戦において戦死している。86才まで長寿を全うした東郷は強運の持ち主だったのだろう。
西南戦争のとき東郷は留学していた。東郷は「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際に東郷の兄は西郷と共に自決している。
東郷は強運、西郷は悲運といったところか? 同じようなことは勝海舟と小栗忠順にも言える。同じ幕臣でも勝は強運、小栗は悲運であった。因みに勝は横須賀製鉄所(造船所)建設には反対だったという。
歴史の舞台で人はそれぞれ与えられた役を演じる。
源頼朝・義経の兄弟では、義経は頼朝の武家政権を全国に広げる役割を担って亡くなっていく。頼朝は義経を捕らえることを口実に、国ごとに守護を、荘園や公領ごとに地頭を置くことを朝廷に認めさせている。
西郷隆盛と大久保利通の親友の間では大久保の明治新体制確立のために西郷は犠牲になる役を担った。明治初期のジャーナリストで作家でもあった福地源一郎は、大久保の人物を「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」と評した。しかし、同じ征韓論で下野した西郷と江藤新平に対しての大久保の対応が違うのに驚く。大久保と江藤は同じ理論家でライバル以上の確執があったようだ。佐賀の乱で江藤が死罪となった際には日記に江藤への罵倒ともとれる言葉を残しているし、江藤が梟首の刑になったのも蔭で大久保の指示があったようだ。
それに比べ西郷に対しては感情がストレートに表出する。大久保は西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回ったという。この際、「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が……」と言ったとも伝わる。西郷は大柄で179cmあったというが、大久保も175~178cmほどあったという。鴨居に頭をぶつけるほと我を忘れて嘆き悲しんだ様子を家人が伝える。
西郷の死によって不平士族の口を塞いだ大久保は中央集権国家の成立に邁進する。西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んだという。また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。
役を演じきれば、歴史は敗者にも優しい。義経や西郷の人気は今も衰えない。国家レベルではなくても、地方・地域そして一族・家族においてもそれぞれ歴史がある。人はみんな役割を持って生まれてくる。それが悪役であったとしても一人として不必要な人間はいない。その意味でも生まれてきた人は大切にされなければならない。そして、歴史を造ってきたのは名を残した人の蔭で消えていった多くの人々であることを忘れてはならない。
昔のことを学習することは一般教養以外に意味がないと語った人がいた。理科系を自認する私が歴史に興味を持つようになったのは最近のことで、そのきっかけを作ってくれた子供たちには感謝している。最近感じていることは、歴史を学ぶことは人間を知ること、そして現代をより深く理解することに繋がるということだ。「温故知新」という言葉の意味が少し分かりかけてきたこの頃である。
横須賀市の隣りに逗子市がある。逗子には東郷の別荘があった。その近くの橋を「東郷橋」という。逗子小学校の校章はローマ字の「Z」と「S」を組み合わせたものだ。逗子小はローマ字で書けばZUSHISHOである。太平洋戦争当時、敵国語として野球の用語も英語が禁止された。そのなかで敵国文字の校章が許されたのは、東郷元帥のZ旗の恩恵があったのかもしれない。
東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。極東の小国日本が大国ロシアに勝利したこの海戦は中東も含めアジアの国々に希望の光と共に大きな影響力を与えたという。
当時ロシアの圧力に苦しんでいたトルコにおいても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった。
明治23年(1890)にトルコは日本の親王訪問の返礼として、総勢600名を超える大使節団を日本に派遣して各地で盛大な歓迎を受けた。帰国の途についたトルコ船エルトゥールル号は熊野灘で台風に見舞われ座礁し爆発した。
紀伊大島の灯台の下に流れ着いた一人の船員が必死で助けを求めた。島にはまだ電灯もない時代。激しい雨の中、灯台守は真っ暗な道を走り、村の人たちに助けを求めた。
多くのトルコ人が命を落とす中、かすかに意識がある人が何人かいた。しかし、その人たちも体温が下がって危険な状態だった。激しい風雨のため、火を焚くことも出来ない中、村の人たちは裸になり自らの体温で船員たちを温めた。言葉が通じないと分かっていながらも、必死で声をかけた。とにかく一人でも多くの命を救いたいという懸命な思いが通じたのか、69名が息を吹き返した。
その後も自分たちの食料を削ってまで献身的な看護をした。数日後、このことは和歌山県知事に伝えられ、明治天皇にも報告された。天皇は69名の生存者を神戸の病院へ移し、回復した後、軍艦「比叡」と「金剛」の2隻でトルコに送り届けた。多くの命が奪われたが、奇跡的に助かった69名は故国の土を再び踏むことが出来た。
このエルトゥールル号の事件は、日本国内にも衝撃をあたえ、犠牲になった遺族の為に全国から義捐金が寄せられた。この活動の中心になったのは当時24才の山田寅次郎だった。山田はこの義捐金を手に外相・青木周蔵を訪ね、トルコの遭難者遺族への慰霊金にして欲しいと依頼した。
これに対して青木は「このお金はあなたが中心になって集めた浄財なのだから、自分の手で届けて下さい。そして日本とトルコの架け橋となって下さい」と勧めた。
山田は単身イスタンブールへ旅立ち、皇帝ハミット2世に謁見することが出来た。ハミット2世は山田に感謝の言葉を述べると共に「これからの我が国を背負って立つ青年士官たちに、日本語と日本の精神や文化について教えていただきたい」と要望した。山田は「日本とトルコのためになるのなら」と承諾し、優秀な陸海軍の士官に日本語と日本の精神論を講じた。
こうして山田はトルコに12年間在住し、トルコを第2の故郷にした。山田の功績は民間レベルのものである。私は同じ滞在12年間でもヴェルニーよりも山田寅次郎に「心」を感じてしまう。現在、串本町にはトルコ軍艦遭難慰霊碑が建っている。
山田が去って2~3年後に山田の教え子のトルコ陸海軍士官のもとに、「日本海軍、ロシアのバルチック艦隊撃破」の朗報が届いたのだから、トルコにおいても「自国の勝利のように喜ばれた」とはオーバーな表現ではようだ。確かにトルコは当時ロシアの圧力に苦しんでいたが、ベースにトルコの人々の日本に対する好感があったことを見逃してはならない。
時は下り、昭和60年(1985)、エルトゥールル号の事件より95年の歳月が流れていた。中東はイラン・イラク戦争の開戦から4年半経っていたが、緊迫状態は続いていた。突然イラクのサダム・フセイン大統領は世界に向けて驚愕の宣言をした。「今から48時間後、テヘラン上空を飛ぶ航空機は、軍用機であろうと民間機であろうと、いかなる国の機体も、すべて撃墜する」というものだ。これはイラクがイランを空爆することを意味するもので世界に緊張が走った。
事前に危険を察知してイランから国外脱出していた人もいたが、テヘランにはまだ約1000人の在留邦人がいた。イランが自国の航空機で外国人を脱出させるには限度があり、他の国の航空機で脱出しようにも、各国とも自国民を退去させるのに手一杯な状況だった。日本の外務省も日本の航空機を派遣することを検討したが、タイムリミットとの関係などから安全が確保できないとして断念せざるをえない状態に追い込まれていた。
フセインが宣言した時刻まで2時間を切った時点で、テヘランの空港には215名の日本人が取り残されていた。いらだちや絶望感、恐怖心でパニック寸前の時、2機の救援機が到着した。それはトルコ航空の特別機だった。特別機は日本人を乗せてイスタンブールへ脱出した。
しかし、なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも全く知らなかった。トルコ大使館へ問い合わせたところ、「1890年、和歌山県の串本町で起きたエルトゥールル号の遭難事故に際し、村人や日本人がしてくださった献身的な救助活動を今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学校の時、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちもエルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、イランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」 危険な任務なのでパイロットに強要はできない中で、「私が行きます」と言ってくれた勇気あるパイロットや乗務員によって日本人の命が救われたのだった。
95年も経てば当時のことを知っている人はほとんどいない。日本人にとって95年は風化して忘れ去られた年月だったが、トルコの人たちにとっては語り継がれた年月だったのだ。歴史は真実を伝えなければいけない。その中には恨み辛みを引きずるものも恩を感じるものもあるだろう。歴史の中には常に光と影がある。まるごと伝えていくことは難しいことでもある。しかし、伝えないことの方がより大きな問題だ。
[音楽噴水池]
コンピューターにより、大小の噴水が音楽に合わせ舞い、夜間はライトアップされて水と光と音の共演が楽しめるという。1時間半おきに行われる。私は12時半に行われたものを観た。天気がよかったので虹が見えた。うっすらだが写真でも確認できる。
[壁泉]
高さ7m、幅55mから流れ落ちるダイナミックな水の躍動感が楽しめる。この壁の向こうに見える建物は、もう米軍基地の建物だ。基地と隣り合わせの町、横須賀を垣間見る。壁泉の壁は何と何を隔てる壁で、何を隠す壁なのだろう。基地の町横須賀にある小さな壁は大きな壁でもある。
[猿島]
猿島が間近に見えた。1253(建長5)年5月、日蓮が房総から鎌倉へ渡る途中嵐に遭い、船の進む方向さえ分からなくなった時、どこからともなく一匹の白猿が現れ、船の舳先に立ち島へ案内したという言い伝えから「猿島」の名が付いたという。明治初期に建造された要塞がほぼ完全な状態で残っている。フランス積みレンガ建造物は全国で4件しかなく、貴重な建造物だという。1時間おきに船が出ている。猿島までの運賃は往復で1,200円だ。夏にでも一度行ってみるのもいいかもしれない。
前の職場から依頼されて、仕事をすることになった。世の中の流れは早いし、半年余り自由な生活をしてきたので不安が無いわけではない。体は動かしていたので大丈夫だと思うが、即戦力を期待される中で心と頭が即座に適応できるか心配だ。3ヶ月足らずの期間でフルタイムでないので引き受けた。何よりお世話になった職場から、まだあてにして頂いたことが嬉しかったのと、微力ながら恩返しができたらと殊勝なことを考えた。
遠くへの長い旅は、しばらく出来ない。ちょうど寒くなることもあり充電期間に充てたい。しかし、この間に鎌倉を含めた三浦半島を回ってみたい。三浦半島に住むようになって何十年にもなり2回の引っ越しを経験したが、家と職場の往復で点と線だけの広がりしかない。地元との繋がりもないし、未だによそ者感覚でいることは否めない。この期間を通して、少しでも点と線を広げて面にしてみたい。
臨海公園(ヴェルニー公園)
昭和21年に旧軍港の一部が公園として市民に開放された。公園の中には横須賀開港の恩人としてフランソワ・レオンス・ヴェルニーと小栗上野介忠順の胸像がある。ヴェルニー公園は「歴史と海とバラの公園」だという。デモの集合場所として何度も行ったが、ゆっくり公園内を散策したことはなかった。
フランソワ・レオンス・ヴェルニーはフランスの造船技師で、海軍増強をめざした徳川幕府の要請により横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として1865年に来日した。明治維新後も引き続きその建設と運営の任にあたり、観音崎灯台や走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍して1876年帰国した。
小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけ ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣。1860年日米修好通商条約批准の遣米使節に加わり、ヨーロッパを廻って帰国した小栗は改革派の代表格になり、保守派の圧力で辞任・罷免を繰り返しながらも、慶応2年には勘定奉行、海軍奉行、陸軍奉行を一手に兼任していた。
小栗はフランスからの借款で横須賀製鉄所建設や西洋式軍隊の訓練を推進した。横須賀造船所の建設においては、相当な費用の負担を幕府に強いることになると、幕府内部からも反対論が根強く、建設地を横須賀にすることへの反対論も強かったという。
徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)、罷免されて領地である上野国(群馬県)群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)に隠遁。東善寺を住まいとし学問塾での指導や水田整備、用水路建設に従事して日々を送った。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して、武装解除に応じ、敵意の無いことを示したが逮捕され、翌日取り調べもされぬまま烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)で家臣3名と共に斬首された。享年42。死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放つ。それが最後の言葉と言われている。
戦後になり明治政府中心の歴史観が薄まると小栗忠順の評価は見直された。作家司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した。しかし、戦前から小栗を知る人々は小栗を高く評価していた。
大隈重信は後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言した。これは大隈の夫人が小栗の遠縁にあたることを考えると過大評価とも言えなくはない。いずれにしても、横須賀製鉄所がその後の海軍工廠の基礎となったように、蕃書調所・開成所、長崎海軍伝習所など幕府諸機関で知識・技術・技能を習得した幕臣・諸藩士、幕府の援助で既に留学していた技術官僚たちの働きを抜きに明治政府の文明開化政策は実現できなかった。
その代表者として様々な構想をもっていた小栗は賞賛に値するだろう。日露戦争の英雄東郷平八郎は、明治45年(1912年)7月、自宅に小栗家の家督を継いだ人を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」とし丁重に礼を述べたあと、「仁義禮智信」と書を認め、これを贈ったという。
小栗上野介忠順が斬首された上野国(群馬県)群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)の烏川の水沼河原の石。昭和28年にこの公園で行われた開港祭を機会に倉渕村から寄贈された。
公園の中には横須賀開港の恩人としてフランソワ・レオンス・ヴェルニーと小栗上野介忠順の二人の胸像があるにも関わらず、公園の名前は「ヴェルニー公園」とは片手落ちだと感じるのは私だけだろうか。「小栗、ヴェルニー公園」でもいいのではないか。ヴェルニーが日本のために尽力したことには感謝するが、大体、彼は小栗上野介忠順とフランス公使レオン・ロッシュが推薦した造船技師だ。1865年に29歳で来日し、1876年帰国した。12年間の滞在期間中に幕府は倒れ明治政府に引き継がれた。彼がリクルートしたフランス海軍技術者は全部で45家族だったという。外国人技術者の報酬はかなり高額だったようだ。
12年間で日本人だけで運営できるようにした彼の力量は評価できるが、「お雇い外人」の言葉があるようにビジネスライクだった部分も否めない。充分稼いだのかフランス帰国後、半年で現役を離れ、42歳でフランス最大の鉱山会社の取締役となっている。多分出資したのだろう。42歳で小栗は斬首され、42歳でヴェルニーは取締役となっている。
ヴェルニーに比べ「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」と言った小栗上野介忠順が、日本の発展を見ることができなかったのは残念だっただろう。この言葉は、「費用をかけて造船所を造っても成功する時分に、幕府はどうなっているかわからない」と言った幕臣鈴木兵庫頭(重嶺・佐渡奉行)に対して小栗上野介が語った言葉である。
また、明治になってからもフランス語が出来ることから日本側責任者となって現地を指揮した旧幕臣栗本鋤雲(じょうん)は、明治中ごろに当時を思い出し「小栗は、これが出来上がれば、土蔵付き売家の栄誉が残せる、と笑った」と書いている。母屋(政権)が売りに出てもこの土蔵(造船所)が新しい家主の役に立つ、ということで、明治維新の三年前、すでに幕府政治の行き詰まりを見通し、のちの時代のために造っていたことがわかる。栗本は「その場の冗談と思ったが、今彼の言った通りになっている。あの時の彼の心中を思うと、胸が痛む」と書いている。
小栗の領地は上野国にあったので小栗上野介を名乗った。吉良上野介以来、上野介の官途名は忌み嫌われ誰も付けなかった。それを敢えて名乗った小栗忠順に古いものを打ち破り新しい道を開拓する者の意気地を感じるのは私だけだろうか。ヴェルニーと小栗、二人とも横須賀開港の恩人であることには違いないのなら、小栗上野介忠順の名も冠する公園にしてもよかったのではないか。私は「Verny Park」そして別名「小栗臨海公園」と呼びたい。
いろいろな種類のバラが咲いていて、アマチュアカメラマンも撮影していた。ロイヤルファミリーのコーナーもあり、プリンセス・エリザベス、プリンセス・ダイアナ、プリンセス・ミチコなどのバラがあった。接写でプリンセス・アイコを撮ったがピントが真ん中に合ってしまい花はぼけてしまって残念だ。
「逸見波止場衛門」
旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰め所。左右2棟あり、左側には「逸見上陸場」、右側には「軍港逸見門」と表示されている。建築年代は、明治末から大正初期と思われる。
三笠公園
三笠公園へ行く公園通りに少女の彫刻があった。「出会い」という題だが、どこが出会いなのか分からない。作者は雨宮敬子さんでお父さんも弟さんも芸術院会員の芸術家一家だという。横須賀学院の前にあり、生徒たちは毎日見ているのだろう。「出会い」だからこの像の前を待ち合わせ場所にでもするのだろうか。私は忠犬ハチ公の前ならいいが、この像の前は遠慮したいと思った。
「めだかの学校」の作詩者、茶木滋さんは横須賀市汐入町の出身だという。めだかの学校の舞台は小田原市郊外の小川だそうだ。
三笠は、明治35年(1902年)建造されたイギリスのヴィッカース社製戦艦である。排水量15,140トン、全長122m、幅23m。日露戦争においては東郷平八郎司令長官が乗艦する連合艦隊の旗艦として大活躍した。特に、明治38年(1905)の日本海海戦では、ヨーロッパのバルト海から派遣されたロシアのバルチック艦隊を対馬沖で待ち構え、集中砲火を浴びながら勇敢に戦い、海戦史上例を見ない圧倒的な勝利に大きく貢献した。
この戦いに勝ったことにより、日本は独立と安全を維持し、国際的な地位を高め、また、世界の抑圧された諸国に自立の希望を与えた。ヴィクトリー号(英)、コンスティチューション号(米)と共に「世界三大記念艦」と云われている。大正15年(1926)以来ここに保存されていたが、太平洋戦争後は荒れ果てていた。昭和36年、有志によって復元整備された。
東郷平八郎
日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。
当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。これは日本海海戦において東郷がZ旗を掲げたことにもよると考える。東郷は海軍士官として1871年(明治4年)から1878年(明治11年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学している。当初ダートマスの王立海軍兵学校への留学を希望したがイギリス側の事情で許されず、商船学校のウースター協会で学ぶことになる。
日英同盟が1902年に調印されたが、その30年前はイギリスにおいて日本は極東の後進国という評価だったのだろう。Z旗が歴史上特別の意味を持って使われたのはトラファルガー海戦の時だという。1805年10月21日、スペインのトラファルガル岬で、イギリス艦隊とスペイン・フランス連合艦隊との間で行われたトラファルガー海戦の際、イギリス艦隊司令長官であったホレーショ・ネルソン提督が旗艦「ヴィクトリー」のマストに「英国は各人がその義務を尽くすことを期待する」という意味を持たせてZ旗を掲げ、味方兵士を鼓舞した。
これは"Z”がアルファベット最終文字である事から、「もうこれ以後は無い」という決戦の意思として用いた最初の例であるという。イギリス留学経験のある東郷は、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。奇しくもトラファルガー海戦から100年後のことだった。東郷が「東洋のネルソン」と呼ばれる所以でもある。
しかし、それまでの海戦で右目の視力と右腕を既に失っている隻眼・隻腕のネルソン提督はトラファルガー海戦において戦死している。86才まで長寿を全うした東郷は強運の持ち主だったのだろう。
西南戦争のとき東郷は留学していた。東郷は「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際に東郷の兄は西郷と共に自決している。
東郷は強運、西郷は悲運といったところか? 同じようなことは勝海舟と小栗忠順にも言える。同じ幕臣でも勝は強運、小栗は悲運であった。因みに勝は横須賀製鉄所(造船所)建設には反対だったという。
歴史の舞台で人はそれぞれ与えられた役を演じる。
源頼朝・義経の兄弟では、義経は頼朝の武家政権を全国に広げる役割を担って亡くなっていく。頼朝は義経を捕らえることを口実に、国ごとに守護を、荘園や公領ごとに地頭を置くことを朝廷に認めさせている。
西郷隆盛と大久保利通の親友の間では大久保の明治新体制確立のために西郷は犠牲になる役を担った。明治初期のジャーナリストで作家でもあった福地源一郎は、大久保の人物を「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」と評した。しかし、同じ征韓論で下野した西郷と江藤新平に対しての大久保の対応が違うのに驚く。大久保と江藤は同じ理論家でライバル以上の確執があったようだ。佐賀の乱で江藤が死罪となった際には日記に江藤への罵倒ともとれる言葉を残しているし、江藤が梟首の刑になったのも蔭で大久保の指示があったようだ。
それに比べ西郷に対しては感情がストレートに表出する。大久保は西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回ったという。この際、「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が……」と言ったとも伝わる。西郷は大柄で179cmあったというが、大久保も175~178cmほどあったという。鴨居に頭をぶつけるほと我を忘れて嘆き悲しんだ様子を家人が伝える。
西郷の死によって不平士族の口を塞いだ大久保は中央集権国家の成立に邁進する。西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んだという。また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。
役を演じきれば、歴史は敗者にも優しい。義経や西郷の人気は今も衰えない。国家レベルではなくても、地方・地域そして一族・家族においてもそれぞれ歴史がある。人はみんな役割を持って生まれてくる。それが悪役であったとしても一人として不必要な人間はいない。その意味でも生まれてきた人は大切にされなければならない。そして、歴史を造ってきたのは名を残した人の蔭で消えていった多くの人々であることを忘れてはならない。
昔のことを学習することは一般教養以外に意味がないと語った人がいた。理科系を自認する私が歴史に興味を持つようになったのは最近のことで、そのきっかけを作ってくれた子供たちには感謝している。最近感じていることは、歴史を学ぶことは人間を知ること、そして現代をより深く理解することに繋がるということだ。「温故知新」という言葉の意味が少し分かりかけてきたこの頃である。
横須賀市の隣りに逗子市がある。逗子には東郷の別荘があった。その近くの橋を「東郷橋」という。逗子小学校の校章はローマ字の「Z」と「S」を組み合わせたものだ。逗子小はローマ字で書けばZUSHISHOである。太平洋戦争当時、敵国語として野球の用語も英語が禁止された。そのなかで敵国文字の校章が許されたのは、東郷元帥のZ旗の恩恵があったのかもしれない。
東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。極東の小国日本が大国ロシアに勝利したこの海戦は中東も含めアジアの国々に希望の光と共に大きな影響力を与えたという。
当時ロシアの圧力に苦しんでいたトルコにおいても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった。
明治23年(1890)にトルコは日本の親王訪問の返礼として、総勢600名を超える大使節団を日本に派遣して各地で盛大な歓迎を受けた。帰国の途についたトルコ船エルトゥールル号は熊野灘で台風に見舞われ座礁し爆発した。
紀伊大島の灯台の下に流れ着いた一人の船員が必死で助けを求めた。島にはまだ電灯もない時代。激しい雨の中、灯台守は真っ暗な道を走り、村の人たちに助けを求めた。
多くのトルコ人が命を落とす中、かすかに意識がある人が何人かいた。しかし、その人たちも体温が下がって危険な状態だった。激しい風雨のため、火を焚くことも出来ない中、村の人たちは裸になり自らの体温で船員たちを温めた。言葉が通じないと分かっていながらも、必死で声をかけた。とにかく一人でも多くの命を救いたいという懸命な思いが通じたのか、69名が息を吹き返した。
その後も自分たちの食料を削ってまで献身的な看護をした。数日後、このことは和歌山県知事に伝えられ、明治天皇にも報告された。天皇は69名の生存者を神戸の病院へ移し、回復した後、軍艦「比叡」と「金剛」の2隻でトルコに送り届けた。多くの命が奪われたが、奇跡的に助かった69名は故国の土を再び踏むことが出来た。
このエルトゥールル号の事件は、日本国内にも衝撃をあたえ、犠牲になった遺族の為に全国から義捐金が寄せられた。この活動の中心になったのは当時24才の山田寅次郎だった。山田はこの義捐金を手に外相・青木周蔵を訪ね、トルコの遭難者遺族への慰霊金にして欲しいと依頼した。
これに対して青木は「このお金はあなたが中心になって集めた浄財なのだから、自分の手で届けて下さい。そして日本とトルコの架け橋となって下さい」と勧めた。
山田は単身イスタンブールへ旅立ち、皇帝ハミット2世に謁見することが出来た。ハミット2世は山田に感謝の言葉を述べると共に「これからの我が国を背負って立つ青年士官たちに、日本語と日本の精神や文化について教えていただきたい」と要望した。山田は「日本とトルコのためになるのなら」と承諾し、優秀な陸海軍の士官に日本語と日本の精神論を講じた。
こうして山田はトルコに12年間在住し、トルコを第2の故郷にした。山田の功績は民間レベルのものである。私は同じ滞在12年間でもヴェルニーよりも山田寅次郎に「心」を感じてしまう。現在、串本町にはトルコ軍艦遭難慰霊碑が建っている。
山田が去って2~3年後に山田の教え子のトルコ陸海軍士官のもとに、「日本海軍、ロシアのバルチック艦隊撃破」の朗報が届いたのだから、トルコにおいても「自国の勝利のように喜ばれた」とはオーバーな表現ではようだ。確かにトルコは当時ロシアの圧力に苦しんでいたが、ベースにトルコの人々の日本に対する好感があったことを見逃してはならない。
時は下り、昭和60年(1985)、エルトゥールル号の事件より95年の歳月が流れていた。中東はイラン・イラク戦争の開戦から4年半経っていたが、緊迫状態は続いていた。突然イラクのサダム・フセイン大統領は世界に向けて驚愕の宣言をした。「今から48時間後、テヘラン上空を飛ぶ航空機は、軍用機であろうと民間機であろうと、いかなる国の機体も、すべて撃墜する」というものだ。これはイラクがイランを空爆することを意味するもので世界に緊張が走った。
事前に危険を察知してイランから国外脱出していた人もいたが、テヘランにはまだ約1000人の在留邦人がいた。イランが自国の航空機で外国人を脱出させるには限度があり、他の国の航空機で脱出しようにも、各国とも自国民を退去させるのに手一杯な状況だった。日本の外務省も日本の航空機を派遣することを検討したが、タイムリミットとの関係などから安全が確保できないとして断念せざるをえない状態に追い込まれていた。
フセインが宣言した時刻まで2時間を切った時点で、テヘランの空港には215名の日本人が取り残されていた。いらだちや絶望感、恐怖心でパニック寸前の時、2機の救援機が到着した。それはトルコ航空の特別機だった。特別機は日本人を乗せてイスタンブールへ脱出した。
しかし、なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも全く知らなかった。トルコ大使館へ問い合わせたところ、「1890年、和歌山県の串本町で起きたエルトゥールル号の遭難事故に際し、村人や日本人がしてくださった献身的な救助活動を今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学校の時、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちもエルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、イランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」 危険な任務なのでパイロットに強要はできない中で、「私が行きます」と言ってくれた勇気あるパイロットや乗務員によって日本人の命が救われたのだった。
95年も経てば当時のことを知っている人はほとんどいない。日本人にとって95年は風化して忘れ去られた年月だったが、トルコの人たちにとっては語り継がれた年月だったのだ。歴史は真実を伝えなければいけない。その中には恨み辛みを引きずるものも恩を感じるものもあるだろう。歴史の中には常に光と影がある。まるごと伝えていくことは難しいことでもある。しかし、伝えないことの方がより大きな問題だ。
[音楽噴水池]
コンピューターにより、大小の噴水が音楽に合わせ舞い、夜間はライトアップされて水と光と音の共演が楽しめるという。1時間半おきに行われる。私は12時半に行われたものを観た。天気がよかったので虹が見えた。うっすらだが写真でも確認できる。
[壁泉]
高さ7m、幅55mから流れ落ちるダイナミックな水の躍動感が楽しめる。この壁の向こうに見える建物は、もう米軍基地の建物だ。基地と隣り合わせの町、横須賀を垣間見る。壁泉の壁は何と何を隔てる壁で、何を隠す壁なのだろう。基地の町横須賀にある小さな壁は大きな壁でもある。
[猿島]
猿島が間近に見えた。1253(建長5)年5月、日蓮が房総から鎌倉へ渡る途中嵐に遭い、船の進む方向さえ分からなくなった時、どこからともなく一匹の白猿が現れ、船の舳先に立ち島へ案内したという言い伝えから「猿島」の名が付いたという。明治初期に建造された要塞がほぼ完全な状態で残っている。フランス積みレンガ建造物は全国で4件しかなく、貴重な建造物だという。1時間おきに船が出ている。猿島までの運賃は往復で1,200円だ。夏にでも一度行ってみるのもいいかもしれない。
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